45 ひっこめ! オヤジ

2004.8


 学校が午前中に終わった日などに昼食のために立ち寄るソバ屋があるのだが、いつもちょっとためらう。できればそこでは食べたくないが、どうにも他に行き場がないとそこに行くが、やはりそのたびに後悔する。ソバがまずいわけではない。ぼくの行く時間帯はたいてい昼飯時を過ぎているから、客が他にいないことが多く、そうすると、ソバが出てきたあと、きまってそれを作ったソバ屋のオヤジが客席に出てきて、テレビを見始める。そのオヤジが、無精ひげだらけのだらしない格好でキタナラシイのである。このオヤジがこのソバを作ったのかと思うと、なんだか食欲がなくなるというわけなのだ。

 このオヤジさえのこのこ出てこなければ、ぼくは何思うこともなく、おいしくソバを食えるのである。まさに知らぬが仏というわけだ。

 これはこのソバ屋に限ったことではない。舞台裏を知らなければ、食べ物だろうと、見せ物だろうと、小説だろうと、映画だろうと、何でも、ああそういうもんかと結構楽しめるのに、舞台裏を知ったがためにそういう楽しみが台無しになるなんてことは枚挙にいとまがない。多くの人は、「舞台」をより深く楽しみたいがために、「舞台裏」を知ろうとするのだが、かえってがっかりということの方が多いことだろう。せっかく、この子可愛いなあなんて思ってファンになりかかったのに、「この子は性格が悪いよ」の一言でその気も失せたなんてこともあるだろう。「舞台裏」のほうが「ほんとう」だと思ってしまうからである。

 しかし、「舞台」と「舞台裏」とでは、どっちが「ほんとう」なのだろうか。

 「舞台裏」を知ってしまったソバと、それを知らないソバでは、どっちが「ほんとう」なのだろうか。いや、そもそも、「ソバ」に「舞台裏」の情報が必要だろうか。ほんとうに大事なのは、「おいしくソバが食べられる」ということだけではないのか。ソバに毒でも入っているのなら大変だが、そうでもないかぎり、「ソバの舞台裏情報」は不要である。悪いのはオモテに出てくるオヤジである。

 「舞台」が「ほんとう」であり、「舞台裏」なんて、実はどうでもいいのだ。「舞台」は人間が心血を注いで作ったものであり、「舞台裏」はそのための準備にすぎないからだ。問題は、そういう「舞台」が、世の中からどんどん少なくなっているということだろう。だからどうでもいい「舞台裏(情報)」ばかりが「ほんとう」の名の下にもてはやされるのだ。


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