36 退屈について

2004.6


 その昔、中学受験をひかえていたころ、成田山へ合格祈願のお参りに行けと祖母からいわれ、父と一緒にでかけたことがある。命令は祖母からくだったのか、それともそもそも父が連れて行きたかったのか、それも定かではない。でもとにかく最低でも2度はお参りに行っている。それが、とても苦痛だった。

 お参りが嫌いなわけではなかった。そうではなくて、成田までがやたら遠く、その電車の中で過ごす時間が退屈でたまらなかったのである。行きはそれでも何とか我慢できても、帰りとなるともう死ぬほど退屈してしまい、国鉄を使うほうが速いか、京成線を使うほうが速いか、父も頭を悩ませたようである。しかし、どちらを使うにせよ、退屈だったことは間違いなく、その退屈がどうにも耐え難いものであったことも間違いない。

 しかし、今考えてみると、電車に乗っていた時間というのは、どう長く見積もっても3時間程度だったはずで、その時間がどうしてそれほど退屈だったのかよく分からない。今なら、新横浜から博多まで新幹線で6時間かかったって、腰が痛くなりこそすれ、退屈なんてしない。といって、車内で本を読むのに熱中しているとか、携帯用のDVDで映画を見ているとかいうのではない。ただ車窓の風景を見たり、ぼんやり考えごとをしているだけで、6時間なんてあっという間にたってしまう。退屈しているのだろうが、それを苦痛と感じないということなのかもしれない。

 子どもはどうして退屈するのか。そしてどうしてその退屈が苦痛なのか。結局、子どもというのは、起きている間は終始何かをしていないと気が済まない動物なのだろう。彼らは、「非退屈」という日常を生きている。だから、車内にただ座っている時間は「退屈」という特殊な時間であり、それ故に苦痛なのだ。

 ところが大人にとっては、人生そのものが退屈なのである。曽我ひとみさん流に言えば、「退屈の海を漂っている」のである。その退屈の海に浮かんだ舟で過ごす時間が退屈だとしても、どこに苦痛があるだろうか。むしろ、3時間だろうが6時間だろうが、「舟に乗っている」ことのほうがよほど「非日常」だから、退屈なんてするはずもない。

 ぼくはそう思っているけれど、大人になってもまだ人生に退屈していない人はたくさんいるらしく、そういう人たちは、いまだに退屈するのを怖がって、定年を目の前にしたりすると、やみくもに趣味を探そうとしたりするようである。


Home | Index | Back | Next