34 言葉は凶器

2004.6


 長崎の女児による殺人事件は衝撃的だった。加害者も被害者も小学校6年生の女児ということ、凶器がカッターナイフだったということ、しかも、事件が同級生のいる学校の中で起きたこと、そのどれをとっても驚くべきことだが、その原因に「インターネット」があったらしいということが、この事件の現代性を示しているように思われる。

 事件の後の街頭インタビューだったかで、メールは相手の顔や表情を気にしたり、その場の状況を考えなくていいから、言いたいことを素直に言えるし、めんどくさくなくていい、といったようなことを若い人が言っていた。面と向かってだと言えないことでも、メールなら言えるといった類のことなら、昔だって同じことで、ただそれがメールではなくて手紙だっただけのことだ。それならメールと手紙は同じレベルにあるのかというと、それは絶対に違う。

 手紙は、それを書くときにある覚悟をもって書く。書いてから、封筒に入れ、切手をはり、ポストまで歩いていく、その時間が確保されている。夜書いた手紙は、すぐには出すなということも鉄則だった。思いのままに書きたい放題書いても、ポストまでの時間が、頭を冷やしてくれる可能性がある。メールにはそれがない。

 もちろん、メールを「寝かせる」ことはできる。けれども、送信ボタンは目の前にあり、それを「ええい!」とばかり押してしまうことを思いとどまらせるのは自分の意志であり、ポストまでの物理的な距離ではない。

 相手の顔色をうかがったり、その場の雰囲気を考えたりすることが、「発言」に様々なニュアンスを加える。それは「めんどう」ということではなく、それこそが、ほんとうの人間関係を築くうえで大切なことのはずだ。「言いたいことを素直に言える」ことが、すべていいとはいえないのは分かり切ったことだ。「言いたいことでも言わない」訓練こそ大事で、それは面と向かった会話でこそ養われる節度ある態度なのだ。

 先の若い人の発言は、安直に、苦労しないで、人間関係を築くための道具としてメールを考えている。しかし、それならそれで、言葉を厳密に使う訓練が出来ていなければならないだろう。たった一つの言葉が人を殺すという恐ろしい現実を知らなければならないだろう。そういう言葉への洞察もない小学生が、自らのホームページを持ち、あまつさえ、掲示板を設置し、チャットに興じることの危険性を、大人は知らなさすぎるのではなかろうか。


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