25 歌わない自由

2004.4


 卒業式やら入学式やらでの、君が代斉唱と国旗の掲揚が、都立高校ではついに100パーセントになったらしい。つい10年ほど前は、確か50パーセントにも満たなかったはずだ。その上、今年の卒業式では、君が代斉唱で起立しなかったということで、180人もの教師が戒告処分になったという。

 国旗の掲揚も、こと細かに決められていて、壇上に立てておくのではダメで、壇上の正面にぶら下げなければいけないのだという。そしてほとんどの都立高校ではそのとおりにしているのだそうだ。

 君が代が国歌としてふさわしいのかどうかという議論は、どんなに反対しても、じゃあそれに変わる国歌があるのかという話になって、それはないだろうね、というところに落ち着いてしまう。全国民から国歌を募集しても、「東京五輪音頭」とか、題は忘れたが万博の「コンニチワー、コンニチワー、世界の国から〜」とかいった類の歌にしかならないことが十分予想され、それならどんなに古めかしく重苦しくても、君が代のほうが「まだまし」か、という結論になってしまうからだ。今更全国民が心から共感して歌える歌がこの国で作り出されるとはとうてい思えないし、そんな歌の必要も実は感じていない。

 君が代の「君」が、誰を指すのかということについての議論もあるようだが、ごく自然に考えれば「天皇」になるわけで、これを「国民」と解釈するのは、平和憲法のもとでも戦争ができるとするぐらいの暴論であろう。事実、太平洋戦争中、この「君」を「天皇」だと考えなかった「国民」がいたはずもない。

 先日、大リーグの開幕戦が東京ドームで行われたが、その試合に先立ち、アメリカ国歌が歌われるのはまあそんなもんだろうと思いつつ、それに続いて君が代が歌われる必然性は何ひとつ感じられなかった。何かというと国歌を歌うということが習慣化されているが、なぜ歌わなければならないのかを、だれもきちんと考えていないように思う。あるいは、歌うように誰かがしむけているといったほうが正確なのかもしれない。

 ぼくは、君が代も歌いたくないし、日の丸をふりまわしたくもない。それはやはり、君が代・日の丸にまつわる歴史的な記憶があるからだ。そういう歌は歌いたい人は歌えばいいが、歌わない自由もある。それを歌わなかったから、起立しなかったからという理由で、教師が処分されるというのでは戦時中とどこが違うのか。嫌な世の中になったものである。


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