15 その一言が言いたくて

2004.1


 儀式張ったことが何より嫌いなので、卒業式、結婚式といったものには本当はあんまり出席したくない。儀式とまではいかなくとも、日常生活での形式ばった事柄はだいたい避けて通りたいと思っている。だから結婚するときも、相手の父親に娘さんをくださいというようなお決まりの挨拶をしたいなどということは考えたこともなかった。

 それなのに、結婚するときは彼女のお父さんのところに行って「お嬢さんをぼくにください」と言うのが幼いころからの夢だったという物好きな人間もいるのである。ぼくの妹の亭主がそうだった。

 彼がそう言っているということを聞いた父はうろたえた。何しろ、父はぼくに輪をかけた照れ屋で、そういう場面がなにより苦手だったからだ。「いいよ、そんなことしなくても」と父はたぶん言ったのだろう。ところが妹の彼は、どうしてもお父さんの前に手をついて「ください」の一言を言いたいのだと言い張って一歩もひかない。父は結婚に反対するどころか、こんな娘でももらってくれる奇特な御仁がいるのなら気の変わらないうちにさっさともらってくれろと思っていたかどうか知らないが、とにかく、そんな一言の必要性をまったく感じていなかったことは確かだ。そのうえ、そんなドラマみたいな場面にいったいどう対処したらいいものか。できればいちばん避けてとおりたいことだったに違いない。

 困り果てた父は、お前も一緒にいてくれとぼくに言ってきた。兄がそんな場に立ち会わなくてはいけない道理もないが、父は少しでも気まずさを軽減したいと思ったのだろう。「そうかそれなら俺に一発殴らせろ」なんて場面展開にはまさかなるまいが、気まずい沈黙が支配するに違いない、いやだなあ、なんでアイツはそんなことにこだわるのかなあ、変な男だなあ、そんなことを思いながら当日になった。

 案の定、父も彼もコチコチだった。父なんか正座してそのまま後ろにひっくり返りそうだった。彼は彼で額に汗をにじませてうなっているばかりでなかなか言い出せない。恐れていた沈黙。早くなんとかしろよ、お前が言い出したことなんじゃないか、と心の中でつぶやいていると、とうとう彼が夢にまで見た一言を言った。

 父はその言葉を聞いて一言、「よござんす」。

 彼も妹も、「よござんす」には驚いたといって今でも腹を抱えて笑う。ところがぼくはこの言葉を聞いた記憶がない。いちばんコチコチになっていたのは、ぼくだったのかもしれない。


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