13 好きだけど分からない

2004.1


 好きなのに、ちゃんと分かっているのかというとそうでもないことが、ぼくにはたくさんある。例えば、お能。大学時代、暇にまかせて観世流の能の観賞団体の会員になり、毎月例会を観にでかけていた。毎回夢中で観て、飽きることがなかった。狂言も歌舞伎も文楽もみな大好きだった。現在でも好きだということは変わらないが、だからといって、それらがよく分かっているかと聞かれると、はなはだ心許ない。

 先日テレビの「情熱大陸」で、能の大鼓の若手を取り上げていた。祖父も父も人間国宝という、亀井広忠である。その父亀井忠雄の舞台は大学生の頃何度も観たことがある。広忠の演奏も、テレビで観ても、まことに迫力のあるすばらしいものだったように思う。しかしその広忠について「あの広忠さんの大鼓がなによりすばらしかったです。」と興奮気味に語る若い女性の言葉を聞いて、ぼくにはあんなふうには言えないなあ、とつくづく思った。「いい」ことは分かるような気がするけれど、正直いって、学生の頃、だれがたたいても、鼓に違いがあるなんて感じたことはなかった。謡いや仕舞いのほうに気をとられて、鼓がどうの、笛がどうのなんて考える余裕もなかった。そして現在でも事情はたいして変わらない。ああ、そこまで理解できる人もいるんだなあと、半分自己嫌悪のような気分におそわれたのである。

 それと同時に、ほんとうに、底の底まで、奥の奥まで、深く理解できるものなんて、はたしてぼくにはあるのだろうか、という疑問がふつふつと湧いてきてしまった。

 ピアノの巨匠リヒテルが初めて来日し、日比谷公会堂で演奏会を開いたときも、クラシックを聴き始めだったとはいえ、途中で寝てしまったほどで、覚えているのはその「すばらしい」演奏ではなく、彼が舞台に登場したときの恐ろしく大きな靴音であった。猫に小判、豚に真珠もいいところだ。

 ひょっとしたら、ぼくには芸術を真に理解する能力がないのかもしれない。分かったとか、理解したとか、好きとかいったって、結局は生半可な分かり方、理解の程度、好き具合、なのかもしれない。そう思うと、何だかさびしい。これだけはまかせろ、みたいなものが一つでもあればなあと思う。これについて語らせたら何時間でも蘊蓄の限りを傾けるぜ、みたいなものがどうかして欲しいものだ。

 けれど、これはぼくが中学生の頃から抱いていた夢なのだ。結局いくつになっても、夢は成就しないということだろう。


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