11 見える不自由

2003.12


 三宮麻由子という人がいる。エッセイストでもあり、ある通信社に勤めるOLでもある。三歳の時に失明し全盲となったが、そうした体験やそこから生まれる新鮮な視点からすぐれたエッセイを多く書いている。

 その三宮さんが、勤務校の二学期の終業式で、講演をしてくださった。これから通信簿をもらうという落ち着かない終業式の日に毎年行われる講演は、どうしても生徒には受けがわるく、特に中学一年生などになると、講演そのものに慣れていないので、隣同士でひそひそしゃべったりすることになる。それをいちいち注意しなくてならないのは辛いものである。

 講演という形式は、どうもぼくは好きになれない。本当にその人の話を聞きたい人だけが集まっての講演会ならいいのだが、学校で行われるとなると、聞きたい聞きたくないの如何を問わず、強制的に聞かせることになるので、興味を持たない者が出てくるのもむしろ当然のことで、それでも、講演者に失礼になるから、教師としては注意しなくてはならない。それに、自分が「いい話だなあ」と思っているのに、全然聞かないで寝ていたり、隣のヤツに話していたりするのを見ると、無性に腹が立つ。そんな時、本はいいなあとしみじみ思う。本は、自分と、著者と、二人きりだ。誰にも邪魔されない。

 そんなわけで、三宮さんの話は、とても示唆に富んだ面白いものだったが、わが中一の生徒諸君には、そのよさが十分に理解されなかったようで残念だった。

 彼女は講演の冒頭で、皆さん目をつぶってみてください、といった。目が見えないということはどんなに不自由なことかということを分からせるためかなと思っていると、そうして、見えることから解放されてください、と続けた。

 ぼくらは見えることによって縛られている、見えるから不自由になっていることがある、ということか。確かに、見えることで、分かったつもりになり、その奥の音や声に耳傾けることを忘れてしまっているということがある。そして真実はその音や声であったりするものだ。

 三宮さんは、ウグイスにも三種類鳴き声があるんですよいって、口笛で見事にそれをまねてみせた。生徒からも嘆声がもれた。こうやってまねをすると、鳥が近づいてきます。でも、コツは、鳥より少し下手に鳴くことです。あんまりうまく鳴くと、鳥は悲しくなるみたい。これは私の発見ですけど……

 三宮さんの世界は、目の見えるぼくらより、ずっと広いのだった。


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