8 時間という怪物

2003.12


 モノというのはたまるものである。特に定期的にやってくるものが始末におえない。新聞なんて、あんな薄っぺらなものなのに、毎日欠かさずやってくるので、あっという間にものすごい束になる。月刊誌ならいいかというと、これもすごくて、ちょっととっておきたくなる雑誌などを定期購読しようものなら、あれよあれよという間に、我が物顔に書棚を占領していく。その様は、まるで暴力的に増大するウイルスのようだ。あれよあれよいう間に、雑誌が増えるだけならいいが、あれよあれよという間に、歳もとっていくのだから、たまらない。おそろしい。

 カレンダーというものも、おそろしい。一ヶ月に1枚なんだから、めくっていく間隔はそうとうあいているはずなのに、ほとんど毎日めくっているような感覚におそわれる。猛烈ないきおいで、ビリッ、ビリッとはがしたり、ひっくり返したりしているような気がする。この減り方もすごい。

 中学高校の同窓会を3年に1回やっていたころ、仲間の一人が、これじゃあ1回欠席すると6年あいてしまう、隔年でやろうよと言うので、それ以来隔年で行ってきたのだが、これも今ではあっという間にやってくる。ぼくは幹事をやっているので毎回出席しているが、ほとんど毎年やっているような錯覚におそわれる。これじゃあ6年ぐらいあいたとしても、たいした間隔じゃないなあなんて思う。やあ久しぶり、なんて挨拶して、そういえば6年ぶりだねえといって済んでしまいそうだ。で、じゃあまたね、といって別れて、こんど会うときが6年後だとして、そのとき生きている保証がまったくないことに気づいて愕然とするわけである。

 たまっていくのはモノではないのだろう。減っていくのもモノではないのだろう。時間という怪物。それが、たまっていくように感じられたり、減っていくように感じられたりするだけなのだろう。月刊誌1冊は、どこまでいっても1冊で、増えもしなければ減りもしない。カレンダーもその日、その月をただ表示しているにすぎない。同窓会の1回は、1回で、多くもなければ少なくもない、ただ1回のその日の同窓会だ。

 6年後に生きていようと、あの世にいようと、「今」が「今」であることに何の変わりもない。時間という怪物に勝つには、そういうふうに考えなさいと、かつての哲学者たちはみんな言っていたように思うのだが、なかなか実行は難しい。そして、時の流れの早さにおびえてばかりいる。


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