5 絵を見る時間

2003.11


 ヨーロッパを旅して山や川といった自然を見てあるいた時間より、美術館で絵を見た時間のほうが密度が高いのはなぜだろうといって、安野光雅はこんなふうに続ける。

 思うに、昔の絵は長い時間をかけて描いたものばかりです。その絵には、絵が描かれていたときの、時計では計ることのできない時間(思索)があり、絵ができあがってから、こんどは時計で計る意味の時間(歴史)が、ほこりのように降り積もっていると思うことがあります。絵を見る人がその時間を共有するのだとしたら、密度は限りなく高いことになります。(「絵のある人生」岩波新書)

 ヨーロッパを旅したことはないから、いろいろ歩いて見てまわれば、きっと充実した時間が流れるに違いないと思うのだが、何度も出かけている安野さんは、あるとき、同行者が美術館や本屋の話をするのを聞いて、そちらのほうが密度が高いと感じたというのだ。

 なるほどそういうことはあるかもしれない。自然というものは、確かに美しいし、感動も与えてくれるけれども、どこかとらえどころのない印象しか残さないものでもある。そこが素晴らしかったからといって、もう一度訪ねても、同じ風景には決して出会えない。

 そういえば詩人の三好達治は、夕焼けの美しさに感動しながらも、それが芸術の美とは違うと気づいて、こんなことを言っていた。

 あの山上のすばらしい夕焼けの中で、私はその時ある種の陶酔を覚えたのは確かだった。けれども私は、その陶酔感の中に愛情に類する感情は覚えなかったように思うのだ。それを「愛する」ためには、適当な大きさと、時間の上で永持ちする持続性とが対象の側において、必要な条件ではあるまいか。(「美しいもの」)

 「適当な大きさ」と「持続性」。それが絵にはある、というのだ。だから愛することができる。広大な自然はぼくらを包み圧倒する。そこに愛は成立しない。愛は同じものを何度でも手のひらにのせて慈しむことだということだろう。そして恐らくそういう愛は時間の密度を高くする。愛とは時間の共有だからだ。

 美術館や展覧会で絵を見始めたころ、いったいどれくらい絵を見ていれば、見たことになるのだろうなんて悩んだことがあった。絵をみることが、絵を愛することならば、そんな悩みに意味はない。好きなだけ、見ていればいいのだ。そして、いつでも見にいけばいいのだ。自然と違って、絵はいつもぼくらを同じ姿で待っていてくれる。


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