97 応援する心

2003.9


 二学期の始まる前日教職員の研修が行われる。強制される研修は都立高校時代から嫌いで、何かと理由をつけてはさぼっていたのだが、この歳になるとそうそう大人げないこともいっていられないので、不承不承出席することになる。

 今年は、講師のお話を聞くだけの研修で、まあ坐っていればいいのだから、楽といえば楽なのだが、自分で話すのは好きなくせに(あるいはそれ故にこそか)、人の話を黙って聞くのはどうも苦手だ。講演というのは、途中で出てくるとか、なんだバカヤローとヤジを飛ばすとか、そういうことが出来ないのが嫌なのだ。せめて気に入らない話の時は、椅子を蹴って退出するぐらいの自由がないと苦痛である。もっとも勇気さえあれば、その程度のことはしてもいいのだろうが、やはりいい歳してそういうことははばかられるわけで、我慢して坐り続けることになるのである。

 ああ、やだなあ、授業に出る生徒もこんな感じなんだろうなあと、憂鬱な気分で会場に坐った。

 講師は、卒業生でもある辻秀一先生。内科のお医者さんだが、スポーツ医学の方面で大活躍の方である。ぼくの後輩でもある。だからといって、話を聞く苦痛が軽減されるわけではない。

 いやいや坐って、聞いていると、面白い話だった。

 「期待と応援は違うんです。応援するというのは、勝とうが負けようが全部ひっくるめて応援するんです。期待は、勝つことだけを求めてしまうことなんです。応援する心を養いたいものです。」

 なるほどね。ぼくは、スポーツを本当の意味で愛していなかったんだなあ。横浜スタジアムのベイスターズの試合を見に行きたいと思いつつ、今年も行かなかったのは、負けるのを見たくなかったからだ。つまり、勝つことだけを期待していたんだ。負けても、いや、負けたときこそ、がんばれよと声援を送ってこそ応援していることになる。やっぱり、ぼくは自分の快感だけを大事にするエゴイストなんだなあ。そんなことをシミジミ感じてしまった。

 吉野弘という詩人は「奈々子に」という詩で、「唐突だが/奈々子/お父さんは お前に/多くを期待しないだろう/ひとが/ほかからの期待に応えようとして/どんなに/自分を駄目にしてしまうか/お父さんは はっきり/知ってしまったから」と歌った。この詩を肝に銘じて生きてきたつもりだが、それでも、いろいろな期待をやはりしてきた。そして応援する心を養ってこなかった。

 やはり人の話は聞くものである。


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