95 フグチリ屋

2003.8


 「かまくら春秋」という月刊のタウン誌に、「栄光学園物語」と題したエッセイのようなものを連載してもう二年近くになる。始めたときは一年ということだったが、もう一年ということになり、初めは学校の歴史をぼくの視点から書いていたのが、後半は、ぼくの個人史のようなものになった。こんなに個人的な思い出を書きつづっていてもいいのかしらと思って書いているうちに、あと三回で連載終了というところまで来てしまった。

 その中で父のことを書いた。昆虫採集に熱をあげてちっとも将来のことを考えないぼくに、父が「進路指導」をする話だ。それを読んだ学校の同僚が、「ヤマモト先生のお父さんって、毎晩フグチリ屋で飲んでいたんですか。贅沢ですよねえ、羨ましいなあ。」としみじみ言った。そう言えばそんなことを書いた。

父は夕食が終わると、さっさと立ち上がり、事務室へ行って帳簿付けをしてから、九時近くになると、必ず近くのフグチリ屋にでかけて十一時ぐらいまで飲んでくるというのが日課だった。

 ここだけ読むと、確かにすごく贅沢な生活のように思えるが、もちろん、ぼくの家は金持ちではなかったから、父にしたって、毎晩フグチリ屋には行ったが、毎晩フグチリを食べていたわけではない(はずだ)。フグチリ屋にはフグチリしかないわけではない。ソバ屋にだってカレーライスもあるようなもので、フグチリ屋にだって、安い酒のさかなはいくらだってある道理だ。まあ、そういうわけだから、そんな贅沢なことでもないんじゃないのと言うと、「それはそうかもしれないけど、毎晩外で飲めるというだけでも贅沢なもんですよ。」と言う。

 そう言われてみればその通りだ。東京や横浜の郊外に住む標準的なサラリーマンの生活では、毎晩「近くのフグチリ屋」に「夕食後」に出かけるなどというシチュエーションは考えられない。これはやはり下町の商店街に住んでいたからこその生活パターンなのだ。自営業のオヤジが、夕飯後、事務所で帳簿をつけた後、近くの飲み屋で一杯やってご機嫌で帰ってくるというのはちっとも贅沢なことではないけれど、その生活パターンが贅沢に思えるというだけ、現代の平均的郊外型サラリーマンの生活が面白みのないものになっていることは確かなようだ。

 もっとも、平均を遙かに超えたサラリーマンの場合は、こんなちまちました楽しみを遙かに超えた豪勢な楽しみがあるに違いないけれど、それはまた別の世界の話である。


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