89 逃げない

2003.7


 ちょっとしたニュースがいつまでも忘れられないということがある。

 もう十年以上も前のことだったような気がするのだが、富士登山をしていて、落石事故に遭遇した家族のことが大変話題になったことがある。覚えている方も多いことだろう。

 何人だったかは忘れたが、おそらくは三人ほどの子どもを連れた家族が富士山を登っているところへ、上の方から落石があった。登山道にいたのは彼らだけではなくて、それこそ長蛇の列だったのではなかろうか。初め、ぱらぱらと小石が落ちてきて、ふと見上げると巨大な石がゴロンゴロンと自分たちを目がけて斜面を落ちてくる。逃げるひまがない。

 そのとき、一家の長である父親は驚くべき行動に出た。大声をあげて、家族全員を石が落ちてくる方向に向かって平行になるように一列に並ばせた。もちろん父親が先頭だ。その後ろに家族全員が隠れるように並んだ。次に父親は、落ちてくる石を正面に見据えながら、その石をよけるために、「右だ!」「左だ!」と号令をかけた。家族はその父の号令に忠実に従って動き、とうとう落石にぶつからずに済んだのだ。

 このニュースを聞いたときは、本当に感動した。なんてすごい父親なんだ、どうしてそんなに冷静な判断ができたのかと感嘆した。というより、ほとんど信じられなかった。

 落ちてくる石は一個や二個ではない。その一個にでもあたったら命はない。普通なら無理とわかっていても逃げるところだ。親としての義務感が強い人なら、子どもの上に覆い被さって自らを犠牲にして子どもの命を救うのが人間としての限界というものではないか。

 それなのにこの父親は、落ちてくる石に正面から立ち向かい、しかも家族を全員自らの後ろに従えた。しかも、見事に落石から身を守った。どう考えてもすごい。

 この父親もすごいが、この父親の後ろに並び、一糸乱れぬ動きができた母と子どもたちもすごい。よほどこの父親は家族に信頼されていたに違いない。ふだんだらしないオトウサンなら、そんな危ない行動に参加する気になれないだろう。オレにまかせろ! と言われても、大丈夫かなあという思いが先立って、勝手に逃げ出したくなるだろう。それを、父親の後ろにしがみついてただ父親の言葉に忠実に従って身を動かし続けたというのだから、見上げたものである。

 ぼくには到底そんな度胸も技量もないが、困難から逃げない姿勢だけは学びたいものだと、この話を思い出すたびに思うのである。


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