85 思い出づくり?

2003.6


 「思い出づくり」なんて言葉がはやりだしたのは、いつのころだったろうか。気がついたら、いろいろな所で使われていて、その都度、何だか落ち着かないような、気恥ずかしいような妙な気分になる。

 「思い出」というのは、いやでもおうでも「できてしまう」ものであって、それをわざわざ「作りましょう」というのは、どこか不自然な匂いが漂う。それは「子どもをつくる」という言葉の不自然さともどこかで通うところがあるような気がしてならない。もっとも子どものほうは、「できた」というのですら、何となくぞんざいな感じがして、できれば「さずかった」ぐらいの言葉は使いたいものである。

 「モノより思い出」という日産のCMのコピーがあって、なかなかうまいことを言うなあと感心したりもするのだが、家族そろって「さあ、今日は思い出づくりに出発だ!」なんて言って海や山に出かけていくとしたら、なんだか変だ。どうも納得できない、妙な感じがある。

 河原でバーベキューに腕をふるうオトウサンは、串に刺した肉やら野菜やらを備長炭で焼きながら、「ああいつの日か、この瞬間の幸福を思い出すんだろうなあ。」などと思うのだろうか。夕日の淡い光の中で食卓を囲んだ家族たちは、「これを一生の思い出にしようね。」と誓いあうのだろうか。それはそれで結構なことじゃないかとも思う。けれども、生きるということは、そういうことだろうか。生きるということは、思い出を作るということだろうか。後で、懐かしく思い出すためにぼくらは生きているのだろうか。そういう疑問がどうしても残る。

 ほんとうに、現在を一所懸命に生きていたら、もう今を生きることだけで精一杯で、それが後になっていい思い出になろうが、嫌な思い出になろうが、そんなことは構っていられないはずだ。

 小学生の頃、絵日記の宿題が出て、何にも書くことがないと泣きわめくぼくに困り果て、父が箱根に連れていってくれたことがある。まさに、絵日記に書くためにでかけた父とふたりのたった一度の小旅行だった。けれども、ぼくの思い出として残ったのは、父との楽しい旅の中身ではなく、絵日記に書くために仕事に追われて忙しかった父が無理して連れていってくれたという事実だった。父の精一杯の姿が鮮明に思い出に残ったのだ。

 「思い出づくり」は、やはり豊かな時代の中で、生きる緊張感をなくし、ふやけてしまった精神が生み出した言葉なのだ。そんな気がする。


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