81 なんである。アイデアル。

2003.5


 若い人はもう知らないだろうが、その昔、「なんである。アイデアル。トホホー。」というテレビCMがあった。植木等が傘を持って「トホホー」と泣くのが妙におかしかった。「アイデアル」という会社(或いは傘のブランド名?)の傘のCMで、その傘をさして、どうして植木等が「トホホー」と突然泣くのかが不可解だったが、植木等がそうやって泣くのがなんともおかしかった。もちろん「なんである。アイデアル。」という韻を踏んだフレーズの秀逸さはいうまでもない。近年では「セブン、イレブン、いい気分」がこれにつぐ脚韻の傑作だろう。

 ところでこのCMの作者は、ぼくの父の幼い頃からの古い友人なのである。この人はお正月には必ず家に挨拶に来ていたから、いわば家族ぐるみのつきあいだった。映画館で映画の上映に間に流す広告をつくる会社などをやっていた人で、彼があるときぼくに「洋ちゃん、あのCMはぼくが作ったんだよ。」と話してくれたのだ。そんな有名な、古典的といってもいいCMの作者がそのオジサンだったなんて、ぼくはかなりびっくりし、半信半疑だったが、どうも本当のようだった。

 「なんである。アイデアル。」を考えついて、それを植木等にやらせ、なぜだか「トホホー」と言わせたら、それがえらく受けた。それで、第二弾をどうしようかと考えた末、「なんである。アイデアル。ジョーシキ(常識)。」というのを作ったら、これが全然受けなかったんだ。そんなことを話してくれた。リアルな話である。

 受けたCMの第二弾はなかなか難しいものだ。「トホホー」の脈絡のなさにくらべると、「ジョーシキ」は理がかっていておもしろくない。「アイデアルという傘を使うのは常識である。」というのではそれこそ「常識的」だ。「何だその傘は?」との問に「アイデアル」と威張って答えておきながら、「トホホー」と情けなく泣く面白さはやはり際だっている。

 おもしろさ、おかしさは、あまり考えたあとの見られない、何気なさから生まれるのかもしれない。それに比べると、第二弾というのは力が入りすぎて理屈っぽくなってしまうようだ。

 最近では明治「おいしい牛乳」の、牛が画面の左から右へ横切りながら「すいませーん、絞ってくださーい」とかいうCM。このCMの作者は実はぼくの勤務校の卒業生なのだが、それはそれとして、やはり抜群のとぼけた面白さがある。しかし、この第二弾もやはり面白くなかった。難しいものである。


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