80 あやめおしろい

2003.5


  萩原朔太郎に、「五月の貴公子」という詩がある。こんな詩だ。

若草の上をあるいてゐるとき、
わたしの靴は白い足あとをのこしてゆく、
ほそいすてつきの銀が草でみがかれ、
まるめてぬいだ手ぶくろが宙でおどって居る、
ああすつぱりといつさいの憂愁をなげだして、
わたしは柔和の羊になりたい、
しつとりとした貴女(あなた)のくびに手をかけて、
あたらしいあやめおしろいのにほひをかいで居たい、
若くさの上をあるいてゐるとき、
わたしは五月の貴公子である。

 この詩が好きでたまらない。「靴が白い足あとをのこしてゆく」とか、「すてつきの銀が草でみがかれ」とかいったイメージは、まさに言葉の魔術。「白い靴が足あとをのこしてゆく」「銀色のすてつきで草をすりつぶし」というふうに書けば、何のことはないのに、逆に書くから、非現実的なイメージになる。まあ、しかし、この辺は現代詩では常套手段。いくらでもマネできる。

 どうしてもマネできないのが、「ああすつぱりといつさいの憂愁をなげだして、わたしは柔和の羊になりたい」というフレーズ。よくこんなことが言えたものだと感心してしまう。「柔和な羊」ではなく「柔和の羊」。「柔和な羊」ならどこにでもいそうだが、「柔和の羊」となると朔太郎の中にしかいないフシギないきもの。「な」と「の」では天と地ほども違う。

 朔太郎が抱えていた憂愁がどんなに深いものだったか知るよしもないが、ぼくにもぼくの憂愁がある。どうにも表現のしようもない憂愁に突然つつまれる。そんなとき、このフレーズが思わず口をついて出る。「柔和の羊」にほんとになりたいと切に思う。

 それにしても、昔からどうしても分からないのが、「あやめおしろい」というシロモノ。朔太郎の詩のどんな注釈書にもこの「あやめおしろい」の説明はない。いったいどういうおしろいなのだろうか。「あやめ印のおしろい」なのか、「あやめのにおいのするおしろい」なのか、それとも……。狂おしいほど分からない。分からないけれど、「しつとりとした貴女のくび」に塗られたおしろいの「にほひ」は、ぼくの嗅覚の奥深くを刺激し続けてやまない。

 「あたらしいあやめおしろいのにほひ」というひらがなの行列の、何というあやしい響き。そして最後の「わたしは五月の貴公子である」という断定の何というやわらかさ。「貴公子だ」では傲慢になる。「である」がかもしだす絶妙のやわらかさである。

 朔太郎。いつまでも新しい。


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