74 感動と本物

2003.4


 自分がゴッホのことを書いた動機は、複製を見て感動したからだ。その後実際のゴッホの原画を見たけれど、感動しなかったと、岡潔との対談で小林秀雄は言っている。小林はさらに続ける。「複製のほうがいいですわ。色がたいへん違うのですが、その原画は、あんまりなまなましい。それが複製されると、ぼんやりしていて落着いてくるのです。複製のほうが作品として出来がいいのですよ。このごろ真贋問題とかで世の中が騒ぎますが、てんで見当が違うことだと思いますね。それは贋物と本物は違うという問題はありますよ。しかし人間の眼だって、そんなによくできたものではありませんよ。絵を見るコンディションというものがありますよ。千載一遇の好機に、頭痛でもしていたら、それっきりです。」(「人間の建設」)

 先頃、ただの「農婦像」ということで2万円ほどで売りに出された絵が、ゴッホの真作と判明するや、六千六百万円で落札されたという事件があったが、これほど「感動」と縁のない話もない。横を向いた農家のおばちゃんの絵に、二万円の金でも、出す人間はいないだろうと思われていたわけである。つまり、だれもその絵に感動していなかったのだ。それなのに、「ゴッホの本物」と分かったとたんに、三千倍以上に値段がはねあがった。そして、それ以後その絵を見る人は、「へー、さすがゴッホねえ。六千六百万円もするんですってよ。すごいわねえ。」とため息ついて見ることになるだろう。

 小林秀雄が「ゴッホ」について精力的に書いていたのはかれこれ五十年ほども前のことだから、複製といっても現在のような精巧な印刷技術によるものではなかったろう。「ぼんやりしていて落着いてくる」などというレベルではなかったはずだ。それでも、原画より複製のほうが「作品として出来がいい」というのは、あまりにも独断的すぎるという感じがするのは否めない。けれども、「美的感動」というものについて考えると、この小林の言い分はやはり重要な点をついているように思えるのだ。

 感動するのは、あくまでこの生身の自分である。生身の自分の感覚が震えなければ、どんな名画だろうと、国宝だろうと、感動は生まれない。本物かどうかは金には関わるが、感動とは関係ない。自分を心の底から感動させるものだけが、感動に関する本物なのであろう。


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