72 ゴキブリ宿

2003.3


 伊豆の吉奈温泉にTという老舗の旅館があって、職場の仲間との旅行で泊まったことがある。その旅館はなかなか凝ったつくりをしていて、廊下の途中に橋が架かっていたり、蔵のような部屋があったり、あんまり詳しく覚えてないが楽しい宿であった。

 客室のほうも離れというのではないけれど、長屋のようになった客室棟にいくつかの部屋が並んでいた。ぼくらは十名ほどの団体だったので、三部屋をあてがわれた。

 たとえ十名ほどでも団体旅行というのは大変なもので、それが教師ともなると、わがままな人間ばかり。なかなか行動が一つにまとまらない。ぼくなどは、とにかく旅館にはやく着きたいタチで、日のあるうちに温泉につかるのを無上の楽しみと心得ている。そのためには、見学場所など削ってしまってもいっこうに構わないという考えだが、温泉なんてどうでもよくて、とにかくめいっぱい見学して見聞を広めたいというタイプの人間も教師だから当然いるわけで、むしろそういうほうが教師としてはまっとうであろう。

 日も暮れかかっているのに、車を止めさせて、「太郎杉がこの奧にあるから見に行こう。」なんて言い出す連中を、そんならあとはバスでおいでと、置き去りにして旅館に到着。明るいうちにと露天風呂に飛び込んだ。太郎杉なんていったいどこが面白いのかなあ、ほんと彼らは変わっているねえ、なんて軽口たたいて上機嫌。

 じゃあ、ぼくは先に出るからといって風呂を出た。部屋に戻ると、入り口を入ってすぐの小部屋に、ゴキブリが一匹這っている。思わず「ゴキブリ! ゴキブリ!」と叫びながら、何か叩くものはないかと、襖を開けた。いつの間に敷かれたのか、部屋一杯に白い蒲団が乱れている。あれ、まだそんな時間じゃないのにな、と思った瞬間、しどけなく浴衣を着た男女が、壁にもたれかかって肩を抱き合って座っている姿が視野の片隅に入った。男の顔を見て血の気が引いた。明らかにそのスジの人である。固まってぽかんと口を開けているその情婦。「なんだコノヤロウ。」という言葉を飛ばしてくる男の目。

 「あ、すみません。ま、ち、が、え、ました。あの、そこの部屋に、ゴキブリがいたもので……」と震える声で言いつつ、後ずさりして部屋を出た。生きた心地がしなかった。ゴキブリとはおれのことかとヤクザのアンチャンが勘違いしてたら、無傷でその部屋を出られなかったことだろう。

 きっと仲間を置き去りにしたバチである。


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