67 復元の愚

2003.2


 法隆寺を見てから薬師寺を訪れると、そのあまりの落差に愕然とする。薬師寺は、もう古寺ではなく、テーマパークになってしまっている。「昔はよかった」というようなことはあんまり言いたくないが、こと薬師寺に限っては「昔はよかった」と何百回でもいいたい気分である。

 金色と丹塗りの西塔や金堂・回廊に取り囲まれて、昔のままの東塔は、見る影もなくみすぼらしく、汚らしく感じられてしまう。初めてここを訪れた人は、新しい建物の華やかさに心を奪われ、地味にくすんだ東塔をなにか邪魔なもののように感じるにちがいない。

 薬師寺の復興された建物がよくないというのではない。それはそれで立派なものだ。けれども、これではあんまりにも「東塔」がかわいそうだ。フェノロサがかつて「凍れる音楽」と評した東塔は、周囲に何もけばけばしい建物のない昔の薬師寺の境内において見たからこそなるほどそうも言えると納得のいくものだった。けれども、現在の薬師寺境内で、東塔から「凍れる音楽」を聞き取ることはまずできない。

 それは、弦楽四重奏とか、バイオリンソナタをうっとりと聴いている時に、突然ロック音楽の大音響が流れてきたようなものだ。ロックが騒音として聞こえるばかりではない。弦楽四重奏やバイオリンソナタも何だか辛気くさい変な音にしか聞こえなくなるだろう。両方同時に聞くことで、どちらの価値も見えにくくなってしまうのだ。

 新しい伽藍を見て、けばけばしいなあと思いながら、でもこれが当時の姿なんだからこっちこそが本物なんだと納得する人も多いだろう。しかし、そういう納得の仕方もおかしい。現代に奈良時代の「本物」を復元しても、それは結局、模型でしかないからだ。過去の時間は決して復元などはできない。フェノロサが東塔に音楽を聞いたのは、造形的な面からだけではないはずだ。何よりもそこに、かつての薬師寺境内に、過去からの長い時間が確かに流れていたからにちがいないのだ。

 所詮お寺は宗教施設なのだから、美術的価値などは二の次ということなのだろう。誰にでもわかりやすい、金ぴかのお寺を建てて、これが昔の偉容ですといえば、信者はありがたがって寄進もするだろう。しかし、真の宗教的な崇高さは、くすんだ東塔に、そして回廊の外のまだ古いままの東院堂の「聖観音」にある。この東院堂は国宝に指定されているので、まさか建て替えはできまい。それだけが、救いである。


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