60 孫の笑顔

2003.1


 「お風呂に入れているときが一番かわいい。」と長男がしきりに言うものだから、こんど来たら孫を風呂に入れてみようと思っていた。

 孫が生まれて四ヶ月近くたったが、東京に住んでいるので、そう簡単に会うこともできない。この正月で、六回目のご対面に過ぎない。そのせいか、会う度に変化する、その速さに驚かされる。まわりでは、東京のオジイチャンと区別するには何と呼ばせたらいいんだろうか、「ようぞうじい」も変だし、「よずじい」も変。「よこはまじいじ」じゃ長いし、そうだ「ピカじい」なんていいんじゃない、「ピカちゅう」みたいでかわいいし、などとこういう話題になったらもう目の色を変える妹なんかは勝手に盛り上がっている。「はい今度は、おばあちゃんにだっこだよ。」なんて言われて、家内も「はいオバアチャンでちゅよ〜。」ともうすっかりオバアチャン気分。

 孫は、やけに機嫌がよくて、あやすと目を細めて笑う。キャッと小さく声をあげることもある。

 とにかく風呂だ、風呂だとせかせる。

 自分の子どもを風呂に入れたことはある。二十台半ばのころのことで、そのころは忙しいのとめんどくさいのとで、あんまり子育てに参加しなかった。「あなたはちっとも育てなかった。」と家内は今でも言っている。しかし、それでも経験は貴重である。だいたいの感じは覚えている。

 先に湯船につかって待っていると、家内がはだかの孫を抱いてやってきた。柔らかい感触である。かけ湯をしてから、湯にゆっくり入れる。実に気持ちよさそうな顔になる。その顔でじっとぼくを見つめる。ちょっとあやすと、にっこり笑う。小さい声を出して、何やら話しかけてくる。やっぱり息子のいうとおり、尋常のかわいさではない。二人きりの時間が数分流れた。天国的な時間だった。

 「子どものように神の国を受け入れるものでなければ、決してそこに入ることはできない。」というイエスの言葉の意味が身にしみてわかった。この孫の、ぼくに向けられた笑顔は、ぼくという人間の全面的な肯定である。何の疑いも、不安も、邪心もなく、体を湯とぼくの腕にまかせきって、笑っている。何という心洗われる笑顔だろうか。

 大人は時に作り笑顔も見せるけれど、それでもやはり笑顔によって結ばれているのだ。言葉は人間を結び、そして分裂させる。笑顔は絶対に分裂を招かない。

 孫はみんなに笑顔をふりまき、泣くだけ泣いて、帰っていった。


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