57 成熟の拒否

2002.12


 成熟というものは、同一であることを願うひとにしか訪れない。(鷲田清一「じぶん・この不思議な存在」)

 そういってから、鷲田は、映画「都市とモードのビデオノート」の冒頭に出てくる監督ヴィム・ヴェンダース自身のナレーションを紹介している。

君は、どこに住もうと、どんな仕事をし何を話そうと、何を食べ、何を着ようと、どんなイメージを見ようと、どう生きようと、どんな君も君だ。独自性(アイデンティティ)──人間の、物の、場所の、独自性。身ぶるいする、いやな言葉だ。安らぎや満足の響きが隠れている“独自性”。自分の場、自分の価値を問い、自分が誰か、“独自性”を問う。自分たちのイメージをつくり、それに自分たちを似せる。それが“独自性”か? つくったイメージと自分たちとの一致が?

 山本耀司の仕事をヴェンダースが取材したこの映画は、「やまもと・よう」まで同じなのにどうしてこの人はこうもカッコイイんだろうと変な感慨に浸りながら何度か見ているのに、この冒頭のナレーションはまったく印象に残っていない。印象に残っていないということは、その言葉に興味がなかったか、あるいは、その言葉が分からなかったかのどっちかだろう。そして多分後者が真実に近いと思う。

 「独自性」という言葉が「身ぶるいする」ほどいやだ、というヴェンダースの気持ちが、十年ほど前のぼくには理解できなかったのだと思う。理解できない言葉は、脳の表面をツルンと滑って、からだの外へ出て行ってしまう。(あまりに理解を絶した言葉は、時に、トゲのように脳の表面にささっていつまでもとれないということもある。)

 しかし、今は、どういうわけか、ヴェンダースの言葉がきわめてしっくりと心に馴染んでくる。鷲田清一のあてた照明によって、その言葉の意味の輪郭がくっきりと浮かび上がったからかもしれない。

 テレビ番組(たとえば「キスイヤ」など)で、娘が結婚したいといって連れてきた「彼」に向かって、腕を組んでにらみつけ、「帰れ」とどなる父親に、まあそういうもんだろうなあと思いつつ、どうもそういう「自分を持った父親」の姿に馴染めないのは、そこに一種の「安らぎや満足の響き」を感じるからなのだと納得される。ぼくのどこかに、そうした安定した大人になること、成熟することを拒否する気分があるらしい。

 成熟の拒否、といえば聞こえはいいかが、いつまでたっても子どもというだけなのかもしれないが。


Home | Index | back | Next