55 コーヒーでいいです

2002.11


 喫茶店でコーヒーを注文するとき、「コーヒーでいいです。」という人がいるが、その「で」に違和感をおぼえる、と多和田葉子が書いている。本当に飲みたいものを言わないで、「コーヒーでいい」と妥協するのは意味がないというのだ。この「コーヒーでいいです」について、多和田は更に次のように述べる。

 「私はエゴイスティックな舌の快楽に導かれてコーヒーを注文するのではなく、本当に飲みたいものを諦めて、まわりに気を使って、家族のこと、会社のこと、お国のことを考えて、仕方なくコーヒーにしたのだから、みんなもまたそういう私の努力を考慮して私のために何かしてくれて当然だし、万が一コーヒーという選択が間違っていた場合には責任はとれない、なぜならこれは私の本当に飲みたいものではないのだから。」という受け身な態度が、「コーヒーでいいです」の「で」に表れているように思えてならない。

 ドイツ人は、多和田によれば、「あらゆるチャンスを利用して自分の個性を確立するのが人間の義務だというこれまた妙な考え方」を持っているそうなので、絶対「コーヒーでいいです」なんてことは言わないのだそうだ。「私はコーヒーがいいのだ。それ以外は飲まない。」という態度らしい。確かに、妙な、そしてずいぶんとウットウシイ考え方だ。

 ドイツ人のことはさておき、多和田の分析はなかなか面白いけれど、長くドイツで暮らしているうちに、ドイツ人に感化されて、「受け身な態度は悪い」というような前提が心の中にできあがっているように思えてならない。

 ぼくについていえば、喫茶店ならともかく、他人の家に招かれて、何がいいかと聞かれて、「ぼくはコーヒーがいいです」とは絶対に言えない。「コーヒーでいいです」ともたぶん言わない。「あ、別に、何でも……」と言葉を濁し、「コーヒーでいいですか」と聞かれるのを待って、「はい」と言うだろう。「コーヒーがいいんですか?」とか「何が好きなんですか?」とか、詰め寄られるような家には最初から行かない。

 つまりぼくは、どっちでもいいのだ。コーヒーじゃなきゃ嫌だというような、確固たる個性をぼくは持ち合わせていないし、持ちたくもない。「本当に飲みたいもの」があったとしても、それを他人に吹聴し、それで「どうだ。個性的だろう。」などと威張り散らしたくもないのだ。そんな気分で「コーヒーでいいです」と言っている人も日本人には多いのではなかろうか。


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