50 「人生」と「金」ふたたび

2002.10


 人生は金次第だなんて前回書いたのは、「人生は金じゃない」と息巻く金持ちと喧嘩したからで、いわば「売り言葉に買い言葉」、やけっぱちの居直りである。自分はたんまりお金を持って何の生活の不安もないのに、人に向かって「そんなに、金、金言いなさんな。」みたいな口を聞く人間には、バカヤロー、お前がそんな暢気な生活をしていられるのは金があるからじゃないか、「人生は金次第」なんだとでも言わなければ、分かってもらえないではないか。

 本気で「金が一番大事だ」と思っているわけではない。これから結婚するひとに向かって、「とにかく金持ちと結婚しなさい。」というつもりもないし、将来の職業を考えている生徒に「とにかく金の儲かる仕事を探せ」などというつもりも毛頭ない。

 若いときは、金のことなんか考えずに、自分の理想を追い求めることが何といっても大事だし、それじゃなきゃ若者といえない。ぼくが高校生のとき、教師になると言ったら、「どうして君はそんなに夢がないのか。君には若さがない。」とぼくを非難して、自分は銀行員になった友人がいた。確かに、彼の方がぼくよりずっと金持ちになったはずだけれど、「若さがない」と言われるスジはなかったと今でも思う。「若かった」のは、銀行員の給料が教師とは比較にならないほどいいのだということを、まったく知らなかったぼくの方である。

 「教師は薄給」という言葉を知っていながら、「まあ、金はそこそこあればいい。それなりの生活で十分だ。」と思って、教師になった。そしてすぐに結婚もした。そのことを別に後悔はしていない。けれども、それなりに年齢を重ねてくると、金の大切さが身にしみるのだ。「金さえあれば何とかなるのに」ということが生活には山ほどあることに、気づかざるをえないというわけなのだ。

 先日、詩人の谷川俊太郎がラジオに出ていて、老後について語っていた。親の介護で苦労したから、自分はいずれは老人ホームに入って、子供には迷惑をかけないつもりだというような話の中で、「金さえあれば、老後も結構楽しいと思いますよ。」とポツリと言った。聞き手はとまどった様子で、すぐに話をそらしてしまったが、お坊ちゃん育ちで若い頃は金の苦労などしたことがないはずの谷川が、三度離婚を経験したはてに漏らした言葉だけに、妙に心にしみるものがあった。

 「人生」と「金」のつながりはなかなか味わい深いものである。


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