46 穴とシミ

2002.9


 今では板張りの雨戸なんてめったに見かけないし、雨戸そのものがない家も多くなった。マンションには雨戸はないだろうし、一戸建てでも雨戸はたいていアルミ製だ。近頃はやりの「出窓」は、雨戸のとりつけようもない。

 ぼくが生まれ育った家は古い木造家屋で、雨戸も当然板張りだった。板張りといってもベニヤ板ではないので、所々に節穴があいている。そのため朝になると、雨戸の節穴から光がスポットライトのように差し込んで、その光の筋に無数の埃が浮かび上がる。

 昔の映画館は、いちおう場内禁煙だったのだろうが、スクリーンにむかって投影される長い円錐状の光のなかに、ゆらゆらと立ち上るタバコの煙が幾筋も見えたが、ちょうどそれみたいなものだ。部屋の空気中にどんなにたくさんのゴミが浮かんでいるのかが実感されて、息が詰まるような気がしているのに、面白がってわざと埃をたててみたりした。

 ところが雨戸の内側のガラス窓が曇りガラスになっている部分に節穴が重なっていると、あら不思議、その曇りガラスに庭の風景が逆さに映るのである。これはちょっとしたものだった。部屋全体が大きなカメラの暗箱になるわけだ。日曜の遅く目覚めた朝など、まだ子どものこととて、トイレにいきたいなんてこともまったくなく、しばらくぼんやりとこの逆さに映った庭の風景にみとれていたものだ。

 中原中也の詩に、「天井に朱(あか)きいろいで、戸の隙を 漏れ入る光」という詩句で始まる『朝の歌』という詩がある。これも雨戸を閉めた寝室で、雨戸をすりぬけた光が天井をぼんやり赤く染めているという光景である。アルミの雨戸ではこんな詩も生まれない。

 そういえば、昔の天井というものも、たいてい板でできていたから、複雑な木目があったり、雨漏りでできたシミがあったりして、想像力をいたく刺激したものだ。空の雲のようにいろいろなモノに見えるのだ。

 穴とかシミとかいったものは、今では「あってはならないもの」だと忌み嫌われるが、本当はそういうものこそが大事なのではなかろうか。

 そんなこというと、顔のシミはどうなんだといわれそうだが、それだって、親のカタキみたいに必死に消さなくたっていいようにも思う。長年つれそった夫婦なら、そろそろ顔にも飽きてくるだろう。そんな顔に変化をつけるために神様がわざわざ贈ってくれたプレゼントかもしれないではないか。

 穴もシミもあってこその人生である。


Home | Index | back | Next