42 ケータイ星人

2002.8


 ひところ電車の中で耳障りなものとして「ウオークマン」がよくやり玉にあがった。静かな電車の中で、どこからともなく聞こえてくるシャカシャカという単調なリズムを伴う音は、一度気づくと気になってしかたがない。それほど大きい音ではないのに「うるさい」と感じてしまうのだ。

 その次は「ケータイ」の話し声。話し相手の声が聞こえない一方的な会話の内容は、たとえ声が小さくても「何を話しているのか分からない」という聴いている側の欲求不満をつのらせ、「うるさい」ということになる。

 この頃は「車内での携帯電話はご遠慮ください」と車掌がしつこく繰り返すものだから、大声でケータイで話している人はずいぶん少なくなった。それでも車内放送だけは相変わらず続いている。こっちのほうがよっぽどうるさいくらいだ。

 で、最近気になる音は、ケータイでメールを打つ音。

 先日、夜遅くの京浜東北線で本を読んでいたら、乗り込んできた若い女性が、ぼくの隣に座るやいなや、ものすごい勢いでメールを打ち始めた。右手の親指だけがめまぐるしく動き回る。その度に、カチカチともプチプチともいえぬ音がする。彼女は降りるまでの十数分間メールを打ちっぱなしである。ゴルフじゃあるまいし、うるさいことはなはだしい。

 近頃の若者がこうした機械を自分の生活の中にあっという間に取り込み、まるで何十年も前からあったもののように自然に使いこなしている様は呆れるほどの適応力で、ほとほと感心するのだが、一方でやはりどうも妙な違和感を拭いきれないのも事実だ。

 これも先日、昭和五十三年制作の「寅さん」をテレビで見た。昭和五十三年といえば、二十五年も前だから、かなりの昔と言えなくもないが、たかだか二十五年ともいえる。それなのに、町の風景がまったく違うのだ。

 男女のファッションとか、自動車の形とか、モーツァルトのピアノ協奏曲が流れる「純喫茶」だとか、時代を感じさせるものは多いのだが、それはただ懐かしさを感じさせるだけだ。しかし、だれもケータイを持っていないということにはたと気づいて、「まったく別の風景」の原因はこれだと膝を打った。

 ケータイの出現によって、ひょっとしたら、人間は一つの進化を遂げてしまったのではなかろうか。深夜の車内でメールを打ちまくる女性は、ひょっとしたら「ケータイ星人」なのではなかろうか。

 ブラウン管の中を元気に飛び回る寅さんを見ながらそんなことを考えた。


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