35 すむ

2002.7


 「住む」というのは、同じ所に長くとどまることである。横浜に住んでいます、というときは最低でも一年位は経っていないとまずい。もっとも数ヶ月でも、数週間でも、ある期間とどまれば住んだことにはなる。ただ、何十泊しても、ホテルや旅館では、住んでいるとは言えない。ホテルに住んでいますというと、どうしても住み込みの従業員という感じになる。

 「住む」人は、同じ所にとどまるのだから、その基本的な心情は、「落ち着き」である。静かな心といってもいい。平安時代などは、「住む」というだけで、「結婚する」という意味があった。「結婚する」ということは、落ち着いて、同じ所にとどまるということを含んでいるわけである。

 同じ所に長くとどまっているということは、一面では、「停滞」を意味する。「結婚生活」が惰性的になり、刺激がなくなり、マンネリ化してしまうのは、だから当然「折り込み済み」なのだ。その「停滞」を、悪いと考えるから、こんなのでいいのかしら、と悩むことにもなる。「停滞」は悪ではない。

 「澄む」ということばがある。「住む」と同音だ。「澄む」というのは、濁っている水などが、そのまま静かに停滞していると、ゴミや泥の粒子などが沈んで、透明になることをいう。試験管などに泥水を入れて、そのままにしておくと、見事に「澄んでくる」のを見ることができる。

 静かに、その場に長くとどまっていると、透明になってくる。曇りがなくなってくる。迷いも汚れもなくなってくる。ものごとの正しい道理が、くっきりと見えるようになる。遠くの笛の音が、きよらかに、はっきりと聞こえるように。

 「澄ます」ということばは、「水などを透き通った状態にする」という意味だが、また「精神を集中させる」という意味もある。「耳を澄ます」という。平家物語には「目を澄ます」という言い方も出てくる。(「殿上の闇討ち」)いずれも美しいことばだ。「耳を澄ます」ということは、耳の奥の心のざわめきを静め、鼓膜を透明にするということだ。「目を澄ます」ということは、心が澄んだ瞳そのものになることだ。それが、精神が集中するということなのだ。やたらと気合いを入れることではない。

 じっと同じ所にとどまることを、恐れてはならない。むしろ、あちら、こちらと気を散らし、落ち着きなく動き回ることこそ警戒すべきなのだ。

 兼好も長明も、草庵に「住んだ」からこそ、彼らの目も耳も「澄んだ」ものとなった。



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