32 陰気な楽しみ

2002.6


 人間は、一人でこそこそ楽しむのが好きな人間と、大勢集まってわいわいやって楽しむのが好きな人間に大きく分かれるような気がする。もちろん、どちらかにはっきりと分類されるというようなものではなく、個人の中でのその比率がどちらに大きく傾くかということだろうが、たとえば、ぼくなんかは、こそこそが8で、わいわいが2というような比率のようだ。昔は、もっとわいわいの比率が大きかったような気がするが、最近では、悪くすると2にも満たないかもしれないという気がする。

 大勢集まって、わいわい騒ぐより、ひとり静かに本でも読んだり、庭木を眺めていたいという気持が最近とみに強くなってきている。ほとんど老境である。

 街でワールドカップに熱狂する若者は、テレビを一人で見たくない、みんなで見てわいわい騒ぎたいのだと口をそろえて言う。若いということはそういうことなのかもしれない。しかし、若くないおじさんも、飲み屋に集まってとにかくわいわいやるのが好きな人も多いから、やはり年の問題でもなさそうだ。

 スポーツ観戦は嫌いではないし、ベイスターズが優勝したときなどは、テレビの前で涙を流したくらい熱狂した。横浜駅の「大魔神神社」(ああ、なつかしい!)への参詣までめでたく果たした。だからといってベイスターズの熱狂的なファンではない。「野球なんて、どうでもいいや。」という冷めた意識がどこかに必ずあるのだ。

 どうやらぼくは「勝った、負けた。」の世界が基本的に肌に合わないらしい。人生を勝負事に例えることが何よりも嫌いだし、「勝ち組・負け組」という言葉には鳥肌が立つほどの嫌悪感がある。勝って大騒ぎをする人がいれば、必ずその裏側に負けて泣く人がいる。それこそがドラマチックな人生じゃないかといえば、そのとおりだが、泣く顔は見たくない。美しい泣き顔なんてない。戦争に勝てば勝利を祝って大騒ぎをするが、その裏には何万人もの死者がいることを忘れたくない。

 勝ち負けのない世界で、心安らかに楽しみたいものだ。しかし、どこにそんな世界があるだろうか。芸術の世界にも、「売れる作家」と「売れない作家」がある。なんとか賞が設定され、そこで「勝ち負け」が生じる。人間というものは、どこまでいっても競争するのが好きな動物なのである。

 そんな世界の中、ぼくはますます陰気な楽しみに傾いていくようだ。



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