31 眠らせたのは誰か

2002.6


 国語の教師になって三十年近くになるが、「国語教育」の専門書というものは、どうも恐ろしくてあまり覗いたことがない。ところが先日、国語科の研究室に、ある国語教育学者らしい人の著作集がドサッと置かれていた。若い教師が興味を持って注文したらしい。せっかくなので、何冊かを手にとってページを繰ってみた。

 「○○論文の誤りは、○○なところにある。」「○○氏は引用もせずに私の論文を批判しているがけしからん。」などといった穏やかでない言葉が、チカチカと目に入ってくる。やっぱりこわそうなトコロである。国語の授業の方法論や、教材の是非などをめぐって口角泡をとばすような激論が「国語教育界」では日々闘わされているのだろう。

 中には目を疑うような議論もある。

 目次に「眠らせたのはだれか。」というヤクザ映画みたいなタイトル。何ごとかと思えば、三好達治の有名な『雪』という題の詩についての論争である。

太郎を眠らせ、太郎の屋根に雪降りつむ。
次郎を眠らせ、次郎の屋根に雪降りつむ。

 たった二行のこの詩は、中学校の教科書などによくとられてきたので、どこかで誰もが読んでいるのではないかと思う。静かに雪が降り積もる中、スヤスヤと眠る子どもの姿が印象的な詩で、谷内六郎の絵のような趣がある。そんな静けさとか、子どものあどけなさが感じ取れればいい詩なのだが、これを教室で扱うと、大混乱。

 それは教師の「誰が太郎や次郎を眠らせたのでしょう?」という心ない質問から始まる。しなくてもいい質問である。やれ雪だ、母親だ、いや父親だ、違う、作者だと、収拾がつかないことになる。収拾をつけようとすると、一編の論文ができるというわけである。

 驚くべきことに、この本で初めて知ったのだが、教室では「眠らせたのは母親である。」と教える先生が多いというのだ。そばにいた若い国語教師も、そう言えば昔そんなふうに習った記憶があるという。

 冗談じゃない、雪に決まってるじゃないかとぼくは思うのだが、中には文法的にこの詩を解析して、主語は母親以外に考えられないと結論づける学者もいるらしい。しかし谷内六郎なら、その絵の中にわざわざ母親の姿を描くだろうか。そんな野暮なことはしないよ、と彼はいうだろう。どうしても母親のイメージが必要なら、母親の形をした小さい雪をたくさん描くだろうなと、彼は言うだろう。

 詩の授業はむずかしい。せめて生徒の詩の心を眠らせないようにしたいものだ。


Home | Index | back | Next