30 雑草という言葉

2002.6


 いちばんいけないのは、何でもひとからげにすることだ。

 「庭に雑草が生えている」というとき、庭に生えている何十種の草の名前は消却されてしまう。「雑草」という名前の草はない。「雑草」とは、「いろいろな草」というような客観的な意味ではなく、「自分にとって邪魔で、ちっとも興味を引かれない草」という極めて濃い主観の混じった言葉なのだ。

 さまざまな草の名前を無視して「雑草」という言葉を使うぼくらの心は、自己を中心として動いていて、自己の外側にあるものに対して、柔軟で自由な感性を閉ざしてしまっている。「雑草」という言葉を知らなければ、ぼくらは個々の草に目を向けるだろう。そうすれば、じつに様々な美しさをもった多様な草がそこにあることに気づくことができる。

 「ああスミレか、と思った瞬間、我々はもうスミレを見ることをやめてしまう。」というようなことを小林秀雄は言っている。言葉は目を閉ざすというのだ。

 「倫理の時間にやったんですけど、どうして『乞食』がいけなくて、『ホームレス』ならいいんですか?」と中学生が真剣な顔をして質問に来た。

 「乞食」という言葉は長いこと「軽蔑」の意味をこめて使ってきた歴史があるから使わないようにしようということだよね。「ホームレス」というのは日本では最近使われ出した言葉で、そこには「家を持たない人」という意味しかなくて、「軽蔑」の意味がこめられていないから、こっちの言葉を使おうということなんじゃないかな。でも、君たちが、軽蔑の意味を込めて「ホームレス」という言葉を使えば、それも「よくない言葉」になってしまうよ。そんなふうに説明したが、ほんとうはもっと複雑な問題がある。

 「ホームレス」が純粋に客観的なただ「家がない人」という言葉かというと、そんなことは決してない。そこには「家がある人」が正常で、「家がない人」はそこから外れているという意識が入り込んでいる。そればかりか、なぜ家を持たないかという個々の事情は当然無視されているわけだ。いろいろな「ホームレス」がいるのに、それをひとからげにして、理解したつもりになってしまう。

 理解したいという感情は、多分に利己的な感情だ。「おれは分かってるんだ」という優越感を味わえるからだ。そして言葉は「理解」を与えてくれる便利な道具だ。

 この度し難い利己主義を脱するには、この便利な言葉をいったん捨てて、静かに対象に向き合わなければならないだろう。







Home | Index | back | Next