29 記憶術

2002.6


 記憶術っていうのがあるんだけど、知ってるかい? と、中学二年生の授業。文語文法の時間、上一段活用の動詞を丸暗記するときの覚え方を説明する前のマクラで、そんなことを持ち出した。

 連想法と言って割合有名な記憶術なんだけど、まず、人間の体の部分を上から順番に覚えておく。たとえば、一番が髪の毛、二番がおでこ、三番が眉毛、四番が目玉、五番が鼻というふうに覚えていくわけ。口、あご、首、肩、脇、おっぱい、おなか、おへそ、とだんだん下へいくとヤバイけど(ウヒヒ!と奇声を発する者約二名。)まあとにかくそうやっていけば、二十ぐらいは簡単に覚えられるね。

 次にたとえば、誰かに、何の脈絡もなく単語を言ってもらう。ハエ、ナットウ、ナス、トウガラシ、タワシとかね。そしたら、それをさっきの体の部分と結びつけてイメージを作るんだ。

 「ハエが髪の毛に止まったとかですか?」と先走る生徒。

 そんなんじゃだめだ。ハエなんてどこにだって止まるだろ。なるべく変なイメージを作るのがコツ。たとえば、ハエが三匹髪の毛に串刺しになって団子三兄弟みたいになってる。ナットウをおでこに塗り付けてべとべとだ。振り返ると眉毛がナスの男。トウガラシを目玉に擦り込んだ。鼻の穴をタワシで掃除して血だらけになった。ほら、これで五つだ。生徒は、ゲーっとか、痛そうとか言って大騒ぎ。

 これでもう一週間たっても忘れないよ。しかもこの記憶術のスゴイところは、三番目は何?って聞かれても、ナス!ってすぐに答えられるということ。逆順も簡単だね。

 それから四日ほどたった次の時間。ある生徒が言った。「先生! この前の、ハエ、ナットウ、ナスっていうやつ、忘れられないんです。どうしたら忘れられるんですか?」

 そうなんだよ。そこが大きな問題なんだ。でも君は大事な人生の真実に直面したわけだ。実はね、人間にとってもっとも大切な能力は記憶力じゃなくて、忘却力、忘れる力なんだな。記憶術はあるけど、忘却術はない。それさえあれば、ぼくらはもっともっと幸せに暮らして行けるんだけどなあ。

 生徒は分かったんだか、分からないんだか、笑っている。

 夜中に突然目が覚めて思わず「オオ!」とか「アウ!」とか叫んでしまうような恥ずかしい体験を、一つ一つ、体の部分に結びつけて連想し、しかる後にパソコンのディレートキイを押すようにして一発で消去できたらどんなにいいだろう、なんて気持ちは、子供にはまだ分かるまい。







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