21 伎癢

2002.4


 十ミリ以下になった「ちび鉛筆」は、海辺で拾った貝殻みたいに、あるいは抜け落ちた真っ白な子どもの乳歯みたいに、蓋つきのガラスビンに保存しておく。老舗の定番ばかりなので、色合いも渋く、数が集まると植物の種のようだ。いつの日かそれらを、近所の公園にでも、こっそり埋めてやろうかと思っている。鉛筆の木が生えてくるのを夢見て。

 先日の毎日新聞に載った堀江敏幸のコラムのラストの部分。

 こういう文章は、ほんとに困る。あまりにもこっちの感性にピッタリしすぎて、「しまった」と思ってしまうからだ。先を越された、という感じなのだ。もちろん、どう逆立ちしても、ぼくより一回り以上も年下のこの芥川賞作家のような発想は生まれてはこないのだが、伎癢(ギヨウ)を感じてしまうのだ。

 「伎癢」なんて難しい言葉を使ったが、これにはわけがある。その昔、ぼくが書いた文章を読んだ友人がこの言葉を使って感想を書いてよこしたのだ。見たことも聞いたこともない不思議なこの言葉に面くらい、ほめられたのか、けなされたのかも分からなくて、辞書で調べたのを覚えている。

 「伎癢」とは「自分の技量を示したくてもどかしく思うこと」。「伎」は「技」とも書き、つまり「技術・技量」のこと。「癢」は、「皮膚や粘膜への軽微な刺激によっておこされる、かきむしりたくなる感覚。かゆみ。」(『漢辞海』三省堂)のこと。

 もう一歩のところで自分の技量を示せるのに、うまくいかず、痒いように苛立たしい、しかし掻きむしるとますます痒みがまして、どうにもならなくなるので我慢している、といった感じなのだろう。

 この「伎癢」ということばは、「嫉妬」とは違って何とも微妙な心の陰影を見事に表してくれる。こんな言葉を高校を出たばかりのころに知っていた友人もすごい。

 渡辺淳一が最近、ワープロではなく鉛筆で原稿を書くということを自慢しているらしい本を出したようだが、堀江の文章にはそういう嫌みがない。4Bとか5Bとかの短い鉛筆をいつもポケットに入れておくと、短い文章を書くときとても便利だ。クロムメッキの補助軸を使うと、中の空洞に短い鉛筆を数本入れておくことも出来るからなお便利だ、というような「伊東家の食卓」の裏技みたいなことを書いておきながら、そこからいきなり詩的な行為と空想へと飛び立っていく。

 見事だ。こんな文章を書きたい。伎癢を感じる。



Home | Index | back | Next