19 春のクレー

2002.3


 パウル・クレーの展覧会が鎌倉の近代美術館で行われているので、見にいこうかと思いながら、クレーってそんなにいいかなあという漠然とした疑念が一方では浮かんでは消えた。以前に何度か展覧会にも行ったし、画集でも親しんではいたが、最近、クレーがそれほどいいとは思わなくなってしまったような気がするのだ。

 しかし、とにかく行くだけ行ってみようと出かけた。勤務校から車で三十分ほどなので楽なものだ。異常なほど暖かい今年の春は、三月半ばですでに桜を咲かせてしまっている。花粉がキラキラ空中に舞っているのが見えるような光の中、車を鎌倉に向かって走らせる。北鎌倉駅周辺には、ハイキング姿の中高年の観光客がぞろぞろ歩いている。

 近代美術館の駐車場はいつもより混んではいたが、駐車スペースは空いていた。千円の入場料を払って中に入ったとたん、失望感に襲われた。何という場内の暗さ。まぶしい春の光の中から急に室内に入ったからとはいえ、ひどく暗い。水彩やスケッチの小品が多数展示されているから、照明を暗くしなければならないぐらい知っているが、それにしてもこんなに暗くする必要があるのだろうか。鉛筆やらペンやらのスケッチは、ぼんやりしてよく見えないし、水彩に至っては、色が半分ぐらいしか出ていない。

 印刷された絵より、原画の方が本物なのだから色もいいはずというのは、明らかに間違いである。薄暗い照明の中で見る原画には、輝きのない、くすんだ色彩しかない。これなら美術全集を明るい光の下で見る方が余程きれいだ。

 それにしても、どの絵をみても何も感じるものがないのはいったいどうしたことだろう。クレーの絵は結局つまらないということだろうか。それとも、ぼくが見る目をなくしてしまったのだろうか。どちらもおおいにあり得ることだ。

 別の展示室に行こうといったん外に出ると、春の光の反射する池に水鳥が遊んでいる。修学旅行で立ち寄ったと見られる中学生が数人歓声をあげてオニゴッコをしている。

 おそらく、クレーが悪いのでも、ぼくが悪いのでもない。美術館の空間が外の自然の空間に負けてしまったのだ。生命がいっせいに花開く春の美しさに、芸術は対抗できない。「芸術の秋」という言葉は、秋だから落ち着いて芸術鑑賞ができるということではない。自然が死に向かうときこそ、芸術の出番なのだ。

 春のクレーは、桜の影で、ひと眠り。ぼくはカタログも買わずに外へ出た。



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