17 梅が香に

2002.3


 花橘は名にこそ負へれ、なほ梅の匂ひにぞ、いにしへのことも立ち返り恋しう思ひ出でらるる。(橘の花は、昔の人を思い出させる花として有名だけれど、やはり梅の香りに昔のことがまるで目の前に立ち現れるように思い出されて恋しいものである。)〈徒然草〉

 嗅覚は原始的な感覚なので、記憶の喚起力が大きいのだという話を聞いたことがある。嗅覚とは切り離せない味覚も、同じように記憶の喚起力が大きいのは、いくつになっても「お袋の味」などといってこだわってる男がいることからも分かるし、かのプルーストのマドレーヌでも世界的規模で有名である。本場のマドレーヌがどんな味なのか知らないが、それを食べて突如よみがえってくる過去はさぞかしロマンチックだろうと思われる。これがみそ汁だったりすると、同じよみがえる光景にしても、どうも貧乏くさくっていけない。日本はやっぱり嗅覚でいったほうがいい。

 となると、やはり梅だ。ところが近頃の高校生ときたら、橘を知らないどころか、梅も知らないという輩が少なくない。せっかく徒然草を勉強しても、梅の匂いを梅干しの匂いと勘違いされたのでは、兼好法師も立つ瀬もなければ浮かぶ淵もない。

 幸い学校の校地内には梅の木が何本もあるので、ちらほら咲き始めた梅の枝を切ってきてクリープの瓶に挿し、教室の前の廊下に机を置いてそこに飾った。そんなことをしても、男子高校生というのは群がったりはしない。横目でチラッと見る程度である。

 それでも芳香千里とはよく言ったもので、長い廊下の端から端まで、梅の香りがほのかに漂うという、まことに結構な塩梅となった。

 十日ほどたつと、飾ったときは蕾がたくさんついていた枝も、おおかた咲ききってしまい、机の上に花びらが落ちるようになった。ここで片づけると兼好法師が悲しむ。散ったあとの風情を味わってこそ、教養人というものだ。しかしさすがに全部花が散ってしまうと、ただ汚いだけで邪魔にもなるから、捨てることにした。そんなぼくを何となく見ている二三人の生徒に「結構よく匂ったよな。」なんて独り言のように言いながら、枯れた枝をダストシュートに捨てに行った。

 戻ってくると、一人の生徒がクリープの瓶を手に持って、「はい」といって差し出した。みると、きれいに洗ってある。ぼくが枝を捨てに行ってる間に、彼は瓶を水飲み場で洗って来てくれたのだった。

 梅の香りがふと鼻の先をかすめた。窓の外は、まぶしい春の光。


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