9 よそながら見る
2002.1
何事であれ、ずかずかと入り込むのは品がないことだ。
いかに身過ぎ世過ぎのためとはいえ、いい年をした男が、芸能レポーターと称して、他人のどうでもいいような家庭の事情に首を突っ込み、根ほり葉ほり聞き出そうとする姿は、その職業的な熱心さに一種の感動さえおぼえないでもないが、決して品がいいとは評せない。
品という、あいまいで、時として階級的な匂いを伴う言葉を避けるなら、教養と言い換えてもいい。
兼好法師は、「品がない人」「教養がない人」ということを、「片田舎の人」という言葉で表した。なんだ差別じゃないかと高校生なら言うだろうが、時代背景も考慮しなければいけない。その「片田舎の人」のお花見。
片田舎の人こそ、色こくよろづはもて興ずれ。(田舎っぺに限って、何事でもしつこくおもしろがるものだ。)花のもとには、ねぢ寄り立ち寄り、あからめもせずまもりて、酒のみ連歌して、はては大きなる枝心なく折り取りぬ。(桜の花の真下に、人を押しのけ体をねじるようにして割り込んで近づき、脇目もふらず花をじっとみつめ、酒飲んで、連歌して、挙げ句の果ては大きな枝を何にも考えずに折ってしまう。)
何のことはない、今の世の花見である。「連歌」なんて高尚そうだが、今なら「カラオケ」程度のことだろう。花を熱心に見てるんだからいいじゃないのという考えもあろうが、過剰な熱意は破壊を産むものだ。
続いて兼好は書く。
泉には手足さしひたし、雪には下り立ちて跡つけなど、よろづの物、よそながら見ることなし。(きれいな泉があればすぐに手を突っ込んで濁らせてしまい、雪が降れば、すぐに飛び出て足跡なんかつける始末で、何事でも、距離をおいて静かに眺めるということがない。)
先日久しぶりに尾瀬のアヤメ平の映像を見た。ぼくは大学生のころ半月ほどアルバイトで尾瀬の自然保護の仕事をしたが、そのときのアヤメ平は、湿原が完全に破壊され尽くした泥の海だった。そこに、草の苗を植え、湿原の復元を計ったのだが、その作業が、30年以上たった今でも終わっていないのを知って愕然とした。
それも、「田舎っぺ」が、土足でずかずかと踏み込んだ結果である。
きれいだ、と思う感覚は尊い。しかし、「よそながら見る」という、この態度はもっと尊いし、現代人が自然に対して持つべき態度だ。
富士山なども「よそながら見て」いれば、無惨なゴミの山にならずに済んだのだ。
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