わがグルメ事始めはクリームコロッケなりき

(わがグルメシリーズ1)


 

 家が忙しかったから、親子そろって外食などした覚えがない。たまに祖母に連れられて、伊勢佐木町の「デバート」にいくと、そこの「お好み食堂」でかつ丼を食べるのが関の山。それで、大学に入るまで、外食というとかつ丼か、精一杯気取ってみても、せいぜいオムライスぐらいしか思い浮かばなかった。

 何の因果か、未曾有の大学紛争前夜というとんでもない時期に教育大などという大学にほとんど偶然のようにして紛れこんでしまって、(この時の偶然さ加減はいずれ書いてみたいと思っているが、とにかくちょっと信じられない出来事があったのだ)まるで田舎者のまんま東京のど真中へ放りだされた。教育大は、今でいえば「ダササ」の極致を行く大学で、ぼくのような田舎者でさえ、「君は何となく周囲になじめないような垢抜けた雰囲気があった」と後年同級生に評された程の所であったのだが、それでも大学を一歩外に出れば、さすが大都会なのであった。

 これは余談になるが、ぼくが高2の頃、小学校時代の恩師の女の先生が、教育大に国内研修のために通った折のことを次のように話して下さったのをよく覚えている。

 「洋三さん、教育大にはね、苦学生が多いのよ。私が学生食堂でお弁当を頂いていましたらね、私の前に坐った学生さんが、新聞紙に包んだお弁当箱をひろげて食べ始めたの。何の気なしに中をみましたら、白い御飯じゃないのよ、洋三さん(この先生は、話の途中でいつもこのようにぼくの心の底を覗き込むような調子で「洋三さん」と言うのであった。ぼくの倫理感の根底にこの声が響いているような気がしてならない)何だったと思います?……コーリャンだったのよ。」

 ぼくは寡聞にして未だコーリャンのお弁当というものにお目にかかったことはないのだが、あの地下室の暗い学生食堂で黙々とコーリャンのお弁当を食べている学生と確かに会ったような錯覚に今でもとらわれている……。

 さて、大学に入って間もない頃、友人二人と茗荷谷駅のすぐそばにある「バンビ」というレストランに昼飯を食べに入ったことがある。その時の友人二人のうち一人は日比谷高校出のTという色の白いやさ男で、何しろ着ているものが縞のブレザーだったことで、そのころのぼくの度胆を抜いていた。しかもそのブレザーを見立てたのが「姉」だと言うのが、ぼくの言いようのない嫉妬をかっていた。当時のぼくが、学生のファッションとして考えつくのは詰襟の学生服かカーキ色のジャンパーぐらいなものだったし、姉のいないぼくには、そんな洒落た衣服を見立ててくれる恐らくは美しい姉がいるなどということは、何十回羨ましいといっても足りるものではなかった。

 もう一人はTとは対照的に、山口県の周防大島という島から文字通り「青雲の志」を抱いて出て来たSという男で、これまた初めてのクラスコンパで「ばくは生の芋をかじってでも勉強するつもりで東京へ出て来ました」と言ったことで、ほとんどぼくの崇拝の対象になりかかっていた。ぼくは怠け者で根性のかけらもない人間なので、この手の人物には、一も二もなく参ってしまうのである。ちなみに、この男、その言葉に違えず大変な努力家で、大学院を出てから暫く高校の先生をしていたが、26か27の若さで東京学芸大学の専任講師になってしまった。たしか学芸大始まって以来の若さとか聞いた。

 さてその二人とくだんのレストランに乗り込んだのだが、何しろ、そんな本格的なレストランなど入ったことなどなかったのだから、ぼくはもうどぎまぎしてしまっていた。もっとも今にして思えば、どうってことない町中の小さなレストランにすぎなかったのだが、そのころのぼくにしてみれば、こんな所へ入っていいのかしらと思うくらい豪華できらびやかに見えたのだ。配られたメニューに一応はもっともらしく目を通したものの、Sもぼくも結局オムライスを頼むしかなすすべがなかった。

 やって来たボーイに、おずおずとぼくとSが「オ、オムライス」「ぼ、ぼくも、それ」と言うそばから、額の髪を斜めにかきあげながら、縞縞もようのブレザー着たTは「ぼく、カニのコロッケね」と言ったのだった。ぼくは今でもこの時のTの声の調子を忘れることができない。それは何と言ったらいいのだろうか、「レストラン」で「カニのコロッケ」を注文することが、いわば日常生活の中に、何の違和感もなくしっくりと溶け込んでいるといった調子の声、とでも言おうか、とにかく、様になっているのである。その後の二十年になろうとするぼくの生活経験をもってしても、どうもこの「調子」は獲得できない、というのがぼくの実感である──。

 それはそれとして、同時にぼくは唖然としてもいた。コロッケというものは、町のお惣菜屋さんに売っているもので、なにもレストランにまで来て食べるものとは到底思えなかったからだ。混乱した頭の中を整理しているうちに、ぼくら田舎者の前には、例によって黄色い卵焼きの上に赤いケチャップをしどけなく垂らした何の変哲もないオムライスが、そしてTの前には、何とそれがコロッケとはどうしても思えない小さくてまるっこい形をしたフライが三、四個盛られた皿が通ばれて来た。

 ぼくら二人が興味津々の横目でちらちら見る中を、彼はそのコロッケをナイフとフォークで食べにかかった。フォークをコロッケに軽く突き刺し、ナイフで半分に切る。すると、見よ、あろうことか、二つに割れたコロッケの中から、まるでヨーグルトのようにトロリと白いクリーム状のものが湯気をたててゆっくりと流れ出てくるではないか。ぼくは息をのみ、唾をのんだ。初めて見るコロッケの有様であった。あの油で揚げた衣の中にクリームが入っているなんて、と我が目を疑う思いだった。それはいかにも旨そうだった。ぼくは目の前のオムライスが急速に魅力を失っていくのを感じていた。

 後日、Sとぼくが、どちらからともなく誘い合って、「バンビ」に赴いたのは言うまでもない。もちろんTは抜きでである。そして、テーブルにつくや、メニューも見ずに「カニのコロッケ!」と言ってにっこり頷き合った。舌にとろける熱いクリームの味は、我が生涯最高の感激だった。ぼくら二人の田舎者は欣喜雀躍、手に手を取り合って喜びを分かちあったのである。

 その一連の出来事を、後年ぼくの連れあいになるべき女性に嬉々としてはしゃいで話したところ、「クリームコロッケが何でそんなに珍しいの?」とあっさり馬鹿にされてしまったが、ぼくは屈辱を感じるいとまもなく、心の内で「そうか、あれはクリームコロッケというものなのか」とひたすら感心しながら、その不可思議な名前を、脳裏に深く深く刻みこんだのであった。

(1986年)