偽善的風景――「失楽園」のことなど


 

 NHKの「ふたりっこ」が、時代背景が戦中から戦後なのに、男がみんな長髪なのはおかしい、当時は坊主頭が多かったはず、時代考証がおろそかになっている、戦争を知らない世代の物が見たら、うそを本当と思ってしまう、ただおもしろおかしいだけではいけない云々、と新聞の投書欄に相変わらずのおばさんのおせっかい。

 「ふたりっこ」を見て、当時は男がみんな坊主だったとういことがわかっても、それが一体なんだっていうんだろう。ばかばかしい、となぜ思わないのだろうか。

 何にでも、教育的効果を求める人種がいる。勉強にならないと安心できないらしい。逆に、勉強になると思えば多少興味がなくても出かける。そんなに勉強していったいどうするつもりなんだろうと思ってしまう。

 渋川市だったか、話題の「失楽園」を市の文化会館だかで上映する計画が、「不倫を題材にする映画を市が上映するのはいかがなものか」(この「いかがなものか」と言う言葉はいやらしい)とかいうクレームがついて中止となり、代わりにアニメだかの上映になったというニュースがつい最近あった。テレビでは街頭インタビューまでして、「市民の反応」を賛否の二通りを流していた。こういう馬鹿馬鹿しい事態を見ていると、日本は田舎だなあとつくづく思ってしまう。ついでに言えば、「失楽園」は「白昼堂々と見にいけるポルノだから、サラリーマンや主婦が殺到している」なんて話を聞くと、ますますど田舎性を感じてしまう。「失楽園」の性描写が過激らしいから見に行くというような感性は、「失楽園」が不倫を題材にしているから、市の企画する上映会には「いかがなものか」というようなことを言う感性と同じくらい質が悪い。

 ポルノなどというものは、今の日本では、「その気」になれば、誰にだって見ることができるものだ。にもかかわらず、いい年をして、「失楽園」がポルノ風らしいという理由で我先に出かける人間は、ポルノを見たくてうずうずしているのに、ビデオ一本借りに行く勇気のない人間だ。そういう自分が恥ずかしくないのだろうか。

 ところで、岩波の今年の9月号「図書」の編集後記(こぼればなし)に書いてあったのだが、最近岩波文庫の「失楽園」(ミルトン著)が「いつになく」売れているらしい。その編集者は、もしかしたら「間違って」読者が買っているのではないかと「心配していたが」知人に聞いてみたら「いつか読もうと思っていたのを実行するきっかけになっただけ。思い出して再読という人もいるんじゃないの。」という答えだったので、その心配は「杞憂」だったと書いている。随分「良心的」な出版社があったものだ。読者が間違って買ったなら、むしろ小躍りして喜べばいいじゃないか。その「知人」とやらは、むしろ例外で、「いつになく売れている」のは、明らかに「間違って」買っているに決まっている。めったに岩波文庫などを買わない人間が「あ、もう文庫になってる、ラッキー!」と思って買ったに決まっているのだ。そんなヤツのことを岩波の人間が何で「心配する」必要があるんだろう。「ザマーミロ!」と思えばいいじゃないか。「日頃岩波文庫に目も向けなかったバチだ。どうだ、思い知ったか。」と言えばいい。それなのに、あくまで良心的出版社を気取る。いやらしいこと限りない。(それにしても、単に知人に聞いただけで、自分の心配が杞憂だったと判断してしまうという感覚も信じられない。)

 ことほどさように、このごろの世の中に偽善的な雰囲気が蔓延しているのはいかがなものか。

(1997年)