宗教的な情熱の行方


 正岡子規の「くだもの」という一連のエッセイの何編かを授業で扱っている。子規は昔から好きだった。全集も持っている。といって、それほど読み込んでいるわけではない。にもかかわらず好きだ。「くだもの」では、いちごを食った思い出、柿を食った思い出などが、短い文章でありながら、細部がくっきりと描かれている。ものの具体性は、常に生き生きとしていて古びることがないということの典型だろう。

 子規は周知のとおり、一生の大半を病気とともに過ごした人だ。とくに29歳から亡くなるまでの約7年間というものは、脊椎カリエスのために病床を離れることができなかった。それにもかかわらず、子規の著作は膨大なものに及ぶ。

 「飯待つ間」という有名なエッセイがある。朝食をとらない子規は、昼飯が待ち遠しくて仕方がない。その飯を床の中で頬杖ついて待ちながら、庭の木をみたり、庭の向こうの路地で遊ぶ子供の声を聞いたりしている。そのうち飯が来る。それだけの話だ。しかし、これを読むと、何か生きているということは、結局「飯待つ間」なのではないかという気がしてくる。

 子規は死後の魂の永遠を信じなかった。徹底して合理的なものの考え方をした。だから、子規にとって「飯」は「この世に生きる」こと以外のことではなかったはずだ。しかし、子規が待っている「飯」は、あまりに一筋に待たれているが故に、ただの「飯」を越えたものになっている。そのいわば幸福の完成ともいうべき「飯」を待つ間の、せつないくらいに幸福な、しかも区切られた時間。それが「飯待つ間」だ。それこそ、われわれの日々の生ではないか。もし、死が「幸福の完成」であるならば。

 制度的な宗教は、みな一様にある種の息苦しさを伴っている。さわやかに、風のように、人々を幸福にする宗教はない。その息苦しさは、宗教的情熱から来るように思われる。ある宗教に熱心になればなるほど、人間は狭いところに押し込められる。そして、その密度の中で、発熱する。場合によって発狂する。宗教的対立は大量殺戮しか生み出さない。

 ぼくは最近思うのだが、宗教の本当の完成は、宗教の消滅にあるのではなかろうか。いや、もっと正確に言うならば、宗派の消滅というべきだろう。ある信仰箇条を信じるか信じないか、ということを問題にする時代はとっくに終わっている。問題は、人間が個人として、あるいは集団として幸福に生きるということだけだ。そのことに向けて実践される行為こそが宗教的なのであって、そのとき、信仰箇条は問題とならない。逆に、いくら信仰箇条をかたくなに守っていても、その人自身が幸福でなかったり、となりの人間を不幸にしたりすれば、その人間は決して宗教的ではない。これは他ならぬイエス自身が繰り返し語ったことではなかったか。

 子規は、制度的な宗教を信じなかったし、ことさら宗教的なものの考え方をしたわけでもない。しかし、腰の激痛に泣き叫びながら、なおくだもののうまさをしたためていたという精神のありようは、幸福であろうとした子規の激しい情熱を感じさせる。そしてその文章は、われわれに生きる希望と勇気と喜びを絶えず与えてくれるのだ。

(1997年)