97 スイッチオン

2001.10


 今ではまず考えられないことだが、ぼくが子どものころの映画館は、もちろん映画上映をしていたのだが、「映画と実演」というのもよくあったようだ。「実演」というと、何となくいかがわしい感じがするかもしれないが、けっしてそういうものではなく、歌手が来て歌うというのが多かったようだ。

 実際にその「実演」を見たのは、高校生のとき友人に誘われていった有楽町の日劇で、映画は「日本の一番長い日」、実演は日劇ダンシングチームの「秋(春?)の踊り」。終戦の日の動乱をマジメに描いた岡本喜八監督のこの映画と、華やかな衣装のダンシングチームのショーの取り合わせはいかにも奇妙だったが、「映画と実演」は、まだその名残をとどめていたわけだ。

 しかし小学生のころは「映画と実演」は噂に聞くだけで、実際に行ったことはなかった。

 都はるみがデビューしたのは昭和39年のことで、ぼくは中学3年生。「お別れ公衆電話」の松山恵子が好きだったので、その後継者みたいな格好で出てきた都はるみは、すぐにぼくのアイドルとなってしまい、「アンコ椿は恋の花」とか「涙の連絡船」とかは、大学を経て就職してからもぼくの十八番だった。「アンコ椿は恋の花」なんかは、何を血迷ったか自分の結婚式で歌ってしまったほどである。

 その都はるみが、横浜は伊勢佐木町の映画館でよく歌っていたらしいのだ。

 我が家がペンキ屋であったことは何度も書いているが、うちに長いこと勤めていた職人でMさんという人がいた。このMさんは、右手も左手も同じように使えるという大変器用な人で、高い所にのぼってペンキを塗るときなんかは両手で塗れるから実に仕事が早いと父が感心していたのをよく覚えている。

 ついでにいうとこのMさんは、色白で普段は非常におとなしい人だったが、お酒を飲んでいて、その酒がある一定量を越えるとまるでスイッチが入ったように陽気で饒舌になるので、我が家では有名だった。給料日にはちょっとした酒を職人にふるまうのが常だったが、ぼくはMさんの「スイッチオン」を楽しみに様子を伺っていたものだ。

 そのMさんが、都はるみの熱狂的ファンだった。伊勢佐木町の映画館で実演があると、真っ先に駆けつけて、客席で「はるみちゃーん!」と叫んでいたらしい。Mさんには、そういうスイッチもあったのだ。今はそのMさんも亡いが、都はるみを聞くたびに、幸福そうな「スイッチオン」のMさんの笑顔を懐かしく思い出す。





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