94 「隠れ家的」

2001.9


 このごろテレビのお店紹介みたいな番組を見ていると、やたらと出てくることばに「隠れ家的」というのがある。ちょっと洒落たレストランは「隠れ家的レストラン」。「男の」が付いて「男の隠れ家的焼鳥屋」なんていうのもある。

 どうも不愉快なことばである。男がなんでこそこそと隠れなければならないのか。女は隠れるどころか、真っ昼間からホテルのレストランで食べ放題に挑戦である。「男の隠れ家」はあっても、「女の隠れ家」なんて聞いたことがない。

 女は堂々と何でもござれとばかりに世にはばかっているのに、いったい男は誰から隠れるというのだろうか。会社の煙たい上司からか、口うるさい女房からか。合理的な価値基準からか、無機的な現代文明からか。

 とにかく、何かから身を隠し、自分を縛るものから解放されて、ホッとしたいらしい。そしてそういう男の願望みたいなものが無条件でよしとされているのが今の日本である。そして、そんな「隠れ家」みたいな店のいくつかを持っていることが、男としてのちょっとしたステータスとなっているようなのだ。

 そういうのがこうじると、サラリーマンを40代で退職し、田舎に家を買って、ソバ打ちをはじめたりする。あげく、店まで開いて、限定10食の手打ちソバなんかを臆面もなくメニューに出したりする。(限定何食なんていうのはプロのすることではない。)もちろん、作務衣を着てバンダナを頭に巻きヒゲを伸ばす。テレビの取材が来たら、「うちでは農薬は一切使ってないんです。自然の恵みを大事にしたいんでね。」なんて、日焼けした笑顔で答えるわけだ。

 過酷な競争社会にたえられないのはよくわかる。そこから身を引いて、自然のなかで生きるのも勝手だ。場末の「隠れ家的飲み屋」の常連となって、母親みたいなママに飲んで甘えたって、それが犯罪であるわけでもない。

 しかし、なんで世の中年の男どもは、こうもだらしがないのかとイライラしてしまう。隠れること、逃げることがだらしがないというのではない。そうではなくて、隠れ方、逃げ方が、画一的なのがだらしないというのだ。

 その上、隠れる、逃げるという以上、人には知られてはならないのはずなのに、すぐにばらしてしまったり、自慢してしまったりする。それがだらしないというのだ。

 そんなだらしのない男をターゲットに、テレビは「隠れ家的」を連発し、甘ったれ中年ばかりが際限もなく増殖してゆく。





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