92 人の命は地球より重い

2001.9


 ああいう映像を見てしまったあとの人間というのは、どこかが根本的に変化してしまうのではないだろうか。見る前の人間と、見た後の人間では、どこかが違うはずだ。そして、見てしまった人間は、もう見る前の人間には決して戻れない。

 原爆のキノコ雲の映像もその一つだろうが、今回のニューヨークの航空機激突の映像は、その根底的な衝撃度からいって、原爆の映像をしのぐものがある。

 原爆のキノコ雲が立ち上る映像は何度みても、その下の多数の人間の想像を絶する恐怖と苦しみが想像され息苦しくなる。しかし、今回のテロは、武器が数十人という人間を乗せた航空機であるということで、恐ろしさの限度をこえている。自らが爆弾となってしまったことを知った乗客の恐怖を、ぼくらは果たして正常な神経を保って想像できるだろうか。

 ひと昔前、何かのテロ事件の折りに、日本の政治家が「人の命は地球より重い」と言って、あくまで人命尊重の立場を貫いたことがあって、それが一方では弱腰だとの嘲笑を受けたことがあった。場合によっては人の命より重いものがあるはずだ、日本人には哲学も宗教もないから、「人の命」以上の価値を思いつけないのだ、というような論調も多かった。

 しかし、今回のような空前の事態をまのあたりにし、思いも寄らなかった映像を見た人間が「人の命を越えた価値はあるのか」と問わずにいられるだろうか。

 イスラム教もキリスト教もいずれも一神教だからいけないのだ、これからは多様性を許すアジア的な考え方や日本的な思想が重要になる、というようなことを、テレビに出て言ってる人がいたが、ことはそんなに単純な話ではない。

 イスラム教のことはよくわからないが、キリスト教の根本的な教えはたぶん「互いに愛し合え」であり「汝の敵を愛せ」である。崇高な目的のためには人を殺してもいいなどとイエスは一度も言ってはいない。右の頬を殴られたら左の頬を差し出せとさえ言っているのだ。

 「友人のために命を捨てるより大きな愛はない」ともイエスは言ったが、それはまさに友人の命が「地球より重い」からだろう。「人の命は地球より重い」というのは、実はあらゆる宗教の究極的な理念なのだとぼくは思っている。そのことを理解している人こそ、真のキリスト教徒であろうし、おそらく真のイスラム教徒であり、仏教徒であろう。

 その究極的な理念で一致し、あらゆる宗教が融和しない限り、人類に未来はなさそうである。



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