80 師の影

2001.6


 

 

  自分と相手との上下関係を常に意識して、相手が自分より少しでも下だと判断すると、とたんにぞんざいな口のききかたをする人がいる。そういう場面に出くわすと、ああこの人は教養がないなあといつも思う。

 教養というのは、何をどれだけ知っているかという知識の量の問題ではなく、どれだけ深く人生を考えているかという、いわば生き方の質の問題だとぼくは考えている。どんなに知識が豊富でも、人間に身分の上下があると信じて疑わないのは、ものを考えたことがないからで、あまり上等な生き方ではない。

 ぼくが尊敬している恩師の先生方は、みな生徒に対して丁寧なことば使いをしていた。もちろん、感情的になって、乱暴なことばを浴びせるという場面がなかったわけではないだろうが、ふだん何気なく生徒と接しているとき、その先生方は自然な敬語まじりのことばで話していて、それが耳に快かった。

 ぼくの中高時代の恩師であり、また後に同僚の教師となったI先生もそういう人の一人だった。生徒に対しても仕事に対しても、常に厳しさと、丁寧さを失わなかった。仕事がつらくて大変なときや、思い屈したとき、わざわざ職員室のI先生の姿を見に行ったという人もいたらしい。その姿を見るとなぜか安心し、がんばろうという力がわいてきたという。

 そういう人もいるのだ。生きている姿だけで、人に勇気や力を与える人。何か感動的なことばを吐くわけでも、劇的な活躍をするわけでもない。それでも、静かに、人を導く人。

 I先生は、しかし、頑固者としても有名だった。朝早く職員室に来ると、どんな寒いときでも、上の窓を開けてしまう。「空気がよどんで臭い」というのだ。そう言われてしまうと、みんな黙ってしまうしかない。やはり年長者には逆らえない。

 しかし、ぼくは敢然と立ち向かったことがある。「お願いですから開けないでくださいよ。寒いんですから。」するとI先生は、「寒ければ後で閉めればいいじゃないか。」と一言。ぼくより背の高いI先生には簡単に手の届く窓も、ぼくは背伸びしないと届かない。やれやれとため息ついて、先生の開けた窓を先生のいないスキに片っ端から閉めて歩いたものだ。

 I先生は数年前定年退職されたが、I先生のいない最近の職員室は、めったに上の窓が開いていない。閉まった窓を見ると、空気の淀みも感じられてきて、今度は自分が開けてみたい衝動に駆られる。いつまでも、師の影を追いかけている自分がいる。







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