8 苔を踏むな!

2000.2


 

 どちらかと言えば、ぼくは穏和な人間なのだが、自分でも不思議なくらい、突発的な怒りの発作に見舞われることがある。三木清によれば、怒りの本質はその突発性にあるそうだから、そういうぼくの怒りも純粋で本質的なものであるようなのだが、とにかく、突然来るので、ぼくだけではなく、周囲の人間もびっくりすることになる。

 荒れに荒れた大学生活もそろそろ終ろうとするころ、国文学科の研修旅行で奈良・京都に旅をした。奈良の長谷寺に現地集合して、橘寺に泊まって精進料理を食べたりしてから、京都に行った。京都のメインは、修学院離宮。ここは予約をしないと入れないので、この旅行の大きな楽しみだった。

 見学は、グループに分けられ、係員がついて誘導するというものものしいものだった。ぼくらのグループは、ぼくらの他に数人の一般客。その中に若い二人連れの男女がいた。腕を組んで、いちゃついて歩いていく姿を、ぼくは何とはなしに腹立たしい気分で眺めていた。

 いろいろな建物を見てまわり、広い庭のあたりに来たとき、男が女の写真を撮ろうとカメラを構えた。男は夢中になって、もうちょっと右だ左だと指示している。どこだっていいじゃないか、と苦々しく思って見ていると、女は男の指示に従って、道を外れて苔の中に一歩足を踏み入れた。

 そのときだ。「苔を踏むな!出ろ!」ぼくは叫んでいた。突然の罵声に、女は弾かれたように道へ戻った。同級生も、すっかりビビッてしまって、あとは静かにゾロゾロ歩いていくばかり。

 宿舎に戻ったとき、引率していた教授が言った。「修学院離宮の係員って、こわいんだねえ。びっくりしたよ。」いいえ、違いますよ、叫んだのはぼくですよと言うと、教授は心底驚いた顔をしてシゲシゲとぼくを見た。えっ、あれ君だったのと同級生も口々にいう。誰も叫んだのはぼくだと思っていなかったのだ。

 ぼくは、大学1年の夏、半月ほど尾瀬で湿原の監視員のアルバイトをしたことがある。尾瀬の湿原の苔は、1センチ厚くなるのに何十年もかかるのだ、だから苔を踏むとその何十年の歳月が一瞬のうちに破壊されることになるということを、現地のプロの監視員から何度も聞かされた。そのようにして破壊され尽くした「アヤメ平」の復元作業も手伝ったが、絶望的に困難だった。どうもそのことが、瞬時によみがえり、ぼくをして叫ばせたらしい。

 今でも、叫ぶかもしれない。苔を踏むな!



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