78 紙の本

2001.6


 

 

 インターネットの普及は、文章表現に大きな変化をもたらした。ひとことで言えば、誰でも、ほとんどただで、自分の書いたものを公に発表できるようになったということだ。この「ほとんどただ」というのが大事で、ぼくらが若い頃、書いたものを人に読んでもらおう思ったら、まず同人誌でも作って配るしかなかった。しかしたいていは資金繰りに行き詰まり、挫折してしまうのがオチだったのだ。同人誌の歴史は廃刊の歴史でもあった。

 だれでも、ほとんどただで、文章を発表できる。これは大変なことだ。

 そのことを、文章の専門家を自負する作家や批評家は、「独り言の垂れ流し」だの「文体のないおしゃべり」だのと言って皮肉り、果ては「こんなふうに自分のことを表現できたらどんなにいいだろう。だが、私にはとてもできない。」などと妙な嘆きをつぶやいてみせたりしている。

 だが、それでは「文章のプロ」たちの書いたものは「独り言」ではないというのだろうか。単に「売れる」とか「有名」とかいうだけで、同じ繰り言を延々とひきずっている「大家」がゴロゴロしているではないか。

 近頃つくづく思うのは、本屋の本棚に「売れる本」しか置いてないということだ。『チーズはどこへ消えた?』などという実質的には一ページ分の内容しかないビジネスハウツーものが、四列五列と平積みにされている光景をみると、思わず「本はどこへ消えた?」とつぶやきたくなってしまう。

 インターネット上の文章がガラクタの氾濫だとしても、そんなことはどうでもよい。「文章のプロ」たちは、そんなことをチャラチャラと批評してひまつぶしをしなければならないほど退屈だったら、少しでも自分の芸を磨くがよい。

 シロウトも馬鹿高い金を払ってまで自費出版にこだわらなくてもよいのだ。確かに「紙の本」の魅力は大きいし、ぼくもいまだに憧れつづけている。しかしまた世の識者の紙の本への執拗なこだわりには「本を出せる者」のいやらしい特権意識がちらついているのも事実だ。

 紙に印刷されようと、モニター上に写しだされようと、「ことば」に何の変わりもない。むしろインターネット上のことばは、ことばだけで勝負せざるをえないだけに、実はより厳しく「文体」を要求されているはずなのだ。そのことに目覚める人たちが多くなれば、金持ちや有名人だけが紙の本を出していばっていられる時代はすみやかに終わりを告げるに違いない。







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