73 女優の美

2001.5


 

 

  高校生のころ、友人が電車の中で、友人が内藤洋子を見かけて「はっとするような美人だった」といって興奮していたことがあった。内藤洋子といっても、今の若い人は知らないだろうが、今でいえば広末涼子みたいな存在で、ものすごい人気があったのだ。

 女優というものは、本来人をはっとさせるような美をもっているべきものだ。例えばデビューしたばかりの大竹しのぶは、決して美人女優ではなかったが、うちの近くのイトーヨーカ堂に日水のカニシューマイの宣伝のためにやってきたとき、回りに集まってきた有象無象の中でやはり明らかに異なる輝きを放っていた。ぼくは思わず連れてきていた息子を、大竹しのぶにだっこさせてしまったほどだ。(いや、だっこさせたかっただけだったかもしれない。)

 またあるときは、国立劇場のロビーで遥かかなたに立っている若尾文子を見たことがある。まるで異界の人、人とも言えぬような異様な美しさに引き込まれたぼくは、静かに近づいてゆっくりと彼女とすれ違ったのだが、若尾文子はそれこそ透明な水晶で作られているように僕には思われた。彼女の肉体を構成している細胞自体がわれわれ一般人とは違うというような気がした。そうじゃなきゃいけないのだ。

 ところが今の時代では、せっかくはっとさせるような美人が現れても、テレビが寄ってたかってバラエティーに引っ張り出し、女優の素顔をさらけ出させてしまう。確かにそれによって女優は身近な人になるが、もう美はどこにもない。バラエティーだけではない、CMもまたしかり。いくら性格女優だからといって、女優を便所のふたにしてはいけない。柴田理恵もそんな仕事を引き受けてはいけない。(勇気は認めるけれど)

 ぼくらの身のまわりにはうんざりするような日常が広がっている。その日常の中で、うんざりするような毎日を送っている。女優の美はいわば芸術作品のように、その日常から僕らを高く遠く連れ去ってくれるものであってほしい。それこそ女優の使命ではないか。

 今の女優は志が低いのだ。売れればいいとしか考えていないのではなかろうかと思えるほどだ。せっかく尋常でない美をもっていても、すぐに照れてしまってか、あるいは反感を恐れてか、自分を茶化してしまう。お笑いなんてクソ食らえ、どんなに生意気だと批判されようと、本物の美を見せて欲しいものだ。





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