71 上を向いて歩いてしまう

2001.4


 

 

 坂本九のことを思うと、悲しくなる。人間、いろいろな死に方があるが、やはりあれは悲しい。坂本九の奥さんの柏木由紀子がぼくの大学の友人の従姉妹だったこともあり、わりと身近な芸能人だったからなおさらだ。彼の歌い方は、あんまり好きではなかったが、NHKの連続人形劇「八犬伝」のナレーションには魅了された。ほんとに惜しい。だから、彼が満面の笑顔で歌っているビデオは見るのが辛い。

 そういう思い入れがあるものだから、最近の若い女子アナなんかが、「へーっ、『明日がある』って、モトがあったんだあ。」なんて平気で言ったりするのを聞くと、「先生、田中好子って、むかし歌手だったんですか。」なんて高校生に聞かれたときみたいに、ムカッとする。「人間にはね、言ってイイコトと、ワルイコトがあるんだよ。」と静かに諭したい気分にもなる。

 ところで、先日、家内と一緒に近くのイトーヨーカドーに買い物に行くために並んで歩いていたら、家内が「どうしてあなたは、そうやって上ばかり向いて歩くの?」と突然何の脈絡もなしに言うので、そのむかし3歳児ぐらいだった次男がぼくと家内の間に挟まれてやはりイトーヨーカドーに向かって歩いている時、いきなり「ねえ、ママ、パパはいつ死ぬの?」って質問したときみたいに不意をつかれてびっくりした。あのときは、「そうか、男の子にとって、父親というものは、母親と自分の蜜のような関係に入り込んでくる邪魔者なんだなあ。」と、まるで深層心理学の奥義をきわめたような気持ちになったものだ。

 それはともかく、家内にそう言われて、「えっ、そうか?」「そうよ。どうして、ちゃんと足下を見ないわけ?」「足下を見るって、つまり、うつむいて歩くってこと?そんなみっともないこと、できないよ。」「でも、それじゃあ、つまずくでしょ?」

 思いあたるフシがあった。最近、車通勤をやめて電車と歩きにしたのだが、よく人の足を踏んでしまうのだ。たった30分の間に3回も、前を歩いている人の靴のかかとを踏んでしまった日もある。そのうち1回は女性の靴だったので、もうすんでのところで靴を脱がしてしまうところだった。何でそんなに人の足を踏んでしまうのかどうも不思議だったのだが、家内の指摘でようやく分かった。

 「上を向いて歩こう」と坂本九は歌ったが、ぼくは、言われなくても上を向いて歩いてしまうのだ。足下は、いつも、見えていない。






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