70 あな、いみじ。

2001.4


 

 

 古文を教えていると、いろいろな重要単語について説明することが多い。なかでも、今も使われているけれど、昔は意味合いがだいぶ違っていた言葉というのがあって、そういう言葉は特に気をつけて覚えておこうなんてことを言ったりする。

 たとえば、古語には、ものごとの程度がはなはだしいという意味を持つことばが結構あって、それがたいてい、よい意味でも悪い意味でも使われる。「いみじ」ということばがその代表格。これはまさに「程度がはなはだしい」ということで、これに「ああ」という意味の感動詞「あな」をつけた、「あな、いみじ」は、前後関係によってどうにも訳せる。

 自動車に追突されてひどくびっくりしたときも「あな、いみじ」。彼女に見事にふられても「あな、いみじ」。全山真っ赤な紅葉を目にしても「あな、いみじ」。とにかく「ひどく……だ」というときは、なんでもかんでも「あな、いみじ」で間に合う。このことを中学生に教えると、しばらくは「あな、いみじ」と叫ぶ生徒が多発する。

 「あさまし」という言葉がある。現代語で「あさましい」と言えば、見苦しいとか、卑しいとかいうことになるが、古語では、「おどろきあきれるほどだ」ということで、これもよい意味にも悪い意味にも使われる。「あさましき人」とは、「あきれるぐらい立派な人」か、「あきれるほどヒドイ人」か、どっちかなのだ。考えてみれば、ずいぶんといい加減な話で、対象となっている人の性質よりも、そこから受けるこちらの印象のほうが優先されているわけだ。

 「すばらしい」という言葉も、今では、いい意味でしか使わないが、つい最近まで、と言っても明治か大正かの時代だが、悪い意味でも使われていたようだ。「すばらしい電車事故」という新聞の見出しが実際あったのだ。

 さきほど、いい加減な話だと言ったが、しかし、よく考えてみると、ぼくらの生活の大部分は、ぼくら自身の感情によって支配されているわけで、「ひどくびっくり」したときは、その「びっくり」したという心の動揺が中心となり、びっくりさせたものが、「よいもの」か「わるいもの」かは、二義的なことなのかもしれない。

 「びっくり」して、いい気持ちになったとき、初めて、「びっくりさせたもの」が、「よいもの」として認識されるというのが本当だろう。だとすれば、日本語は、いい加減どころか、きわめて心理的には正確な言葉なのかもしれない。





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