67 どこかさびしい

2001.3


 

 

 演歌はすでに滅びている。それは限りない郷愁を誘うものでこそあれ、いまの歌ではない。言ってみれば、蒸気機関車と同じことだ。

 今でもSLが走るといえば、駆けつけるマニアも多いが、しかしどんなにSLマニアが頑張ってみても、SLが新幹線を駆逐して、現在の中心的な乗り物になるわけではない。

 演歌もそれと同じことだ。いまだに次々と新しい演歌が作られてはいるようだが、そこに盛り込まれる心情は、相も変わらぬ古くさい恋愛の形態であり、その形態にぴったり寄り添って離れようとしない類型的な情緒である。現在新しく作られている演歌は、言ってみれば、SLの模型みたいなものだ。

 たとえばいい例が、氷川きよしの『箱根八里の半次郎』。どういうわけか、やたら売れたらしく、紅白にまで出る勢いだったが、これも決して「新しい歌」ではない。しかしこれも演歌の模型なのだと思えば納得がいく。模型は模型として結構面白い。しかしあくまで模型は模型で、本物ではない。『箱根八里の半次郎』は面白い歌だが、現在のわれわれの心情をぴったりと表現する歌ではないのだ。

 かつての三橋美智也の『夕焼けトンビ』は、確かにそのころのある部分の日本人の心情を表現し得ていた。故郷を捨てて都会に出て働く者の望郷の思いである。あるいは田端義雄の『かえり舟』は、引き揚げ者の思いにリアルに直結していたのだ。

 しかし、たとえば、ちあきなおみが歌った『矢切の渡し』は、ひとつのフィクションとして十分に楽しめたが、すでにわれわれの日常的心情とはかけ離れたものだった。連れて逃げてよと歌ってみても、日常からわれわれを連れて逃げてくれる人なんでどこにもいなかったのだ。それでもそのメロディーはわれわれの心に深く染み込んでくるものがあり、そのころまだ演歌は生きていた。

 それから時間はまだそうたってはいない。それにもかかわらず、今『箱根八里の半次郎』を聞いても、SLに乗っている気分どころか、NゲージのSLを見ている気分にしかなれない。この気分はどうにもしようがない。いったい何が変わったのだろうか。

 たまにカラオケに行けば相変わらず演歌ばっかり歌っているが、「演歌的心情」のパロディーを歌っているに過ぎないことが、自分でもしみじみよくわかる。

 演歌を支えていた何かが、確実に滅び去った。それだけは確かだ。それを嘆く気持ちはさらさらないが、やはりどこかが、ちょっとだけ寂しい。












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