66 「楽しさ」から「嬉しさ」へ

2001.3


 

 

 前回の続きになるが、ぼくの父と母が、若い二人連れの発した「ああ楽しいねえ」と言う言葉を聞いて笑った理由には、「楽しい」と言う言葉が持っている微妙なニュアンスの問題がある。

 白川静によれば、「楽しい」とは「安定した満ち足りた快適の状態を言う。感覚的な快楽感を言うことが多い語である。」(『字訓』)とある。大野晋の『岩波古語辞典』では「満腹で満ち足りた気持ちである意。後に、物質的に充足している意。平安女流文学にはこの語の例がないが、それは、このような意味が、宮廷の女房社会では口にのぼせるのにふさわしくなかった故であろう。中世では〈貧し〉の対。金銭的に豊かである意。」と詳しい。

 「楽しい」が持っているこのようなニュアンスが、父や母のなかで、そして幼いぼくのなかで、まだ生き生きと生きていたということなのだろうか。

 若い二人が思わずもらした「楽しいねえ」は、「僕たちは、金銭的に恵まれ、なんて満ち足りているんだろう。」という内容だったとすれば、やはり今だって、耳に逆らう。

 「楽しい我が家」「楽しい教室」「楽しい会話」「楽しい人」……現代には、こんなフレーズが氾濫している。昔の人が「口にのぼせるのにふさわしくない」と思った「楽しい」は、今や、生きるモットーであり、目標である。どこかの放送局では「楽しくなければテレビではない」とまで言いきった。

 それは何よりも、表面的、感覚的な快感の臆面もない追求だった。「楽しい我が家」の追求は、恐ろしいほどの家族エゴイズムを、「楽しい教室」の追求は「学級崩壊」を用意した。「楽しい会話」「楽しい人」の称賛は口べたな若者を「ひきこもり」に導いた。

 「嬉しい」という言葉がある。再び白川静によれば、「嬉しい」とは「心のはれるような満足感をいう。」とある。「うれ」は「心」を意味し、「し」は「良し」なのだそうだ。

 「楽しい教室」とはいうが「嬉しい教室」とはいわない。「あなたの言葉、嬉しかった」とはいうが「あなたの言葉、楽しかった」とはいわない。「楽しい」がいかに「表面的な快感」と直結し、「嬉しい」がいかに「心のおく深く」にかかわっているかがよくわかる。

 「嬉しい言葉」に満ちあふれた教室だったらどんなにいいだろう。辛い仕事は「楽しく」はないが、「嬉しい」ものではあり得る。「嬉しい会話」は、たった一言でもいいのだ。

 「楽しさ」から「嬉しさ」へ、価値の軸を移していったらどうだろう。












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