65 「ああ、楽しい。」

2001.3


 

 

 小学生の頃だったろうか。家族で潮干狩りに行ったことがある。父も母も妹も一緒だったように思うのだが、細かい記憶はほとんどない。だが、一つだけ強烈に印象に残っていることがある。

 ぼくらが潮干狩りをしているすぐ側で、若い男女二人が、やはり潮干狩りをしていたのだが、その若い男が感に堪えないような声で「ああ、楽しいねえ」と言ったのだ。父も母も、その言葉を聞いて笑った。それだけの場面である。

 父と母がなぜ笑ったのか。それは、日常会話のなかで「楽しい」という言葉は、当時まず使われることがなかったからだろうと思うのだ。またそうだからこそ、幼いぼくにもその「楽しい」という言葉が深く印象づけられたのだろう。

 もちろん、そうかそんなに楽しいのかという感慨が父にも母にもあって、それが思わず「笑い」となったとも考えられるのだが、父も母も、「楽しい」という言葉に確かにこだわっていたように思うのだ。

 いま、そのことをふと思い出して、その時代が昭和30年代であり、まさに日本の高度経済成長の時代であったことを考え合わせると、何か象徴的な意味が感じられる。

 生活の主軸を「楽しさ」に据えること。それが、その当時、劇的に起こっていたのではないか。家族で潮干狩りをすることが「楽しい」ということは、父も母も思っていたことであっただろう。しかし、「ああ、楽しいねえ」と言う言葉には、同じように「ああそうだねえ」という反応を返すことができなかった。「えっ、楽しいだってさ」という笑いが生じたことの意味。

 家族そろって潮干狩りをすることの「楽しさ」を、全面的に肯定するという意味をその言葉は持っていたのだ。それだけでいい。人生はそういう「楽しさ」を求めていけばいいんだ。それでなぜ悪いのか。そういう思想がそこで高らかに、宣言されたのだ。

 楽しくても、その楽しさをそういうふうにあっけらかんと肯定し、目的化することへのためらいが、父にも母にもあったはずだ。「楽しさ」を人生の目的とは考えることができない、生活上の鬱屈があったはずなのだ。

 その思想の延長線上にある現代の生活を考えるとき、やはり「楽しい」という言葉に抵抗を感じた父と母の感覚が、いまだにぼくの中に根深く存在しているのを感じる。「楽しい」という言葉を使うことをためらう何かが、ぼくの中に依然として存在しているようなのだ。











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