62 人を解放する言葉

2001.2


 

 

 だいたいぼくは立派な人の話を聞くのが嫌いである。立派な人の話というのがえてしてツマラナイという理由だけではない。立派な人が素晴らしい話術で素晴らしく魅力的な話をしたとしても、それでもやっぱり嫌いである。

 いや、もう少し正確に言おう。立派な話ほど嫌いなのである。どうしてか。立派な話は、ぼくの精神を萎縮させるからだ。

 立派な生き方をしている人の、立派な行いやその思いのたけを聞いて、ようしオレも頑張ろうと思うひともいるだろうし、ぼくにしても、話を聞いた直後は妙に精神が張り切っていることを感じることもある。しかし、1時間もしないうちに、心は重く打ちひしがれてくる。なんて、オレはダメなヤツなんだ。とうてい、あんなふうには生きられやしない。オレなんて、生きてる価値があるんだろうか。そうなふうに心はどんどん萎縮していってしまうのを、どうすることもできない。

 それに反して、失敗談は、いつ聞いても楽しい。落ち込んでいるときなんか、特にいい。ああ、こんなにバカなことやってる人がいるんだと思うだけで、心が軽くなる。何とかしてその人に近づこうなんて妙に心を高ぶらせることもないから、やっぱりオレには無理だなんて後でガックリくることもない。失敗談は、人の心を軽くし、解放してくれる。

 人を閉じ込める言葉と、人を解放する言葉があるのだ。

 新約聖書などは、その厳しい道徳律で「人を閉じ込める言葉」に満ちているように思われがちだが、そうとばかりも言えない。「欲情をもって女を見れば、姦淫したと同じだ」とイエスが言うのは、「いつも清い目で女を見ろ」と言っているのではない。「あの人は、イヤらしい人です。罪人です。」とやたら人を非難する狂信的なパリサイ派の人に向かって、「いいかげんにしろ。君だって、いい子ぶってるが、イヤラシイ思いで女を見ることだってあるだろう。」って言っているのだ。

 売春婦をよってたかって非難する人々に、イエスは「お前たちの中で罪のない者は、この女に石を投げよ。」と言ったのも、「少しは自分のことを反省しろ。」ということなのだ。

 イエスほどのえらい人になると、どんなに立派なことを言っても、人の心を重く閉ざすことはないということだろう。普通の人間は、人に向かって偉そうに話さない方がよさそうである。









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