61 ケータイはテレパシー

2001.2


 

 

 ケータイの普及はすさまじいものがあり、つい先日の新聞でも、5割を越える高校生が、授業中にケータイを使用したことがあると報じられていた。事態は5割以上の高校生がケータイを「持っている」なんていう次元をはるかに超えているのだ。

 授業中に使うというのは、もちろんメールである。(メールでない場合だってあるだろうが)教科書を読んでいるふりをして、プチプチとメールを打つことなんて簡単だし、もちろん、届いたメールを読むのはもっと簡単だ。

 何と嘆かわしいことだと世の識者はため息つくところだろうが、そんなのんきな愚痴を言っている場合ではない。授業中に、彼女(あるいは彼)から、リアルタイムにメールが入る。そして、すぐにまた返事ができる。これは、ほとんどテレパシーの世界である。そういえば、最近、とんとテレパシーという言葉を使わなくなったが、ケータイメールによって、すでに実現してしまったからなのだろう。

 昔、テレパシーというものを考えたとき、(テレパシーというのは、離れた者同志が心と心を通じ合わせる能力のことです。念のため。)だれもが「声」として考えたはずだ。声が心の中で「聞こえる」ということを想像したわけだ。しかし、実現したのは、「文字」だった。これだけでも、オドロキである。電話で文字が送れるなんて、昔は誰も思わなかったのである。

 「文字」が手のひらの上の小さい機械に現れて、人の心を語り始めたとき、ぼくらは、ふたたび「文字」の発明の偉大さを知ることとなった。文字こそが、心を運び、心を伝える、最高の手段だということを改めて知ったのだ。

 ケータイも第三世代、第四世代と進化を続けるそうで、動画をリアルタイムで送れる時代も間近だが、しかし、真に革命的だったのは、文字の送信だったのだ。

 この驚くべき機械を手にした若者が、夢中にならないとしたらそれこそオカシイ。授業中だからといって、やめられるわけもない。今、まさに、ぼくらは人類史上まれにみる、コミュニケーションの大革命に立ち会っているのだ。授業どころじゃないのだ。

 しかし、はやまってはいけない。ケータイがテレパシーだすれば、ぼくらはもうひとつのことに気づかなければならないのだ。それは、「本」こそが、実は「タイムマシン」だったということだ。ケータイの文字は、たしかに空間を超えた。しかし、文字はその誕生のときから、すでに時間を超えていたのである。










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